じじぃの「人の死にざま_1377_劉・少奇」

劉少奇 - あのひと検索 SPYSEE
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國家主席劉少奇之死 動画 YouTube
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文革 動画 YouTube
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劉少奇 ウィキペディアWikipedia)より
劉 少奇(りゅう しょうき、リウ・シャオチー、1898年11月24日 - 1969年11月12日)は、中華人民共和国の政治家。凱豊や胡服などといった別名も使用した。 第2代中華人民共和国主席などを務め、中国共産党での序列は毛沢東に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店 (一部抜粋しています)
劉少奇 (1898 - 1969) 71歳で死亡
劉少奇毛沢東は、相ともに中国共産革命の偉業をなしとげた同志である。しかし、毛沢東はあくまで乱世の雄であり、統一後、中国の近代化を進めるのには不適な人物であった。劉少奇はそのゆえに毛沢東を排しようとした。あたかも日本の大久保が西郷を排しようとしたのに似ている。
しかし毛沢東は、西郷とちがって凄まじい権力欲の持主であった。彼は「文化大革命」という乾坤一擲(けんこんいってき)の奇策をとり、紅衛兵を使って、「走資派」「労働貴族」などの罪名を投げつけて劉少奇を打倒した。
1967年7月18日、北京中南海にある劉少奇の家は突然家宅捜索された。2日後、劉少奇は逮捕されたが、彼は妻の王光美に向かって、「歴史の審判は人民が下すだろう。私が死んだら、灰は海にまいてくれ」といい残して、連行されていった。
投獄された69歳の彼は、紅衛兵に殴られ、監視され、みるみる憔悴し、髪も髯(ひげ)ものび放題になり、手がふるえてマッチをすることも出来なくなった。やがて歩行も困難になる、便所にもゆけなくなり、大小便を垂れ流すありさまになった。
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開封に到着後、2日目に彼は死んだ。その5人の遺児は語る、「父は1969年11月12日午前6時45分、恨みをのんで開封の監獄で死にました」
死体はボロ毛布につつまれたまま火葬場に送られ、骨壺には「無職、伝染病による病死」と書かれていたという。
遺児たちは語る。「……母の王光美も投獄され、80歳になる母方の祖母、長兄の充斌(いんひん)。次兄の充若(いんじゃく)が次々に悲惨な死をとげました。長女の愛琴は牛小屋といわれる私的監獄に監禁されて何度も殴られました。19歳だった平平は独房におしこめられ、17歳の源源は血を売って生計をたてなければならないありさまでした。14歳の亭亭は町をさまよい、6歳の粛粛まで吊るしあげられました」
因果は小車(おぐるま)のごとくめぐり、1980年「四人組裁判」にひき出された毛沢東未亡人江青を見て、傍聴席の劉少奇未亡人王光美は、「愉快! 愉快!」と、さけんだ。