宮本輝「老舎『茶館』」③
老舎について
[読書] 老舎/『駱駝祥子(ラクダのシャンツ)』『猫城記』(2021/04)
ブログ di Luna
2021年3月から4月にかけて、中国の近代作家、老舎の『駱駝祥子』および『猫城記』という作品を読みました。
『駱駝祥子』は、だいぶ以前に一度読んだことがありますが、再読となります。その感想などを記してみます。
ちなみに、「猫」の中国語の発音は、Mao(マオ)で、これは「毛沢東」の「毛」Mao(マオ)と同じ音です(四声は違いますが)。これは偶然かもしれませんが。老舎は晩年、前述の様に、この毛沢東の提唱した文化大革命の紅衛兵に詰問され、結局命を落とすことになるのも、因果なのかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/kzfj0409/archives/85447188.html
『失われた世界史 封印された53の謎』
歴史の謎研究会/編集 青春文庫 2018年発行
老舎の謎――文化大革命の犠牲者、その凄絶な最期に残るいくつかの疑問 より
現在中国を代表する小説家で劇作家でもあった老舎(ろうしゃ)はノーベル文学賞の候補にも挙げられたことがある。そんな偉人が、文化大革命が始まってまもなく、知識人であるというだけの理由で、紅衛兵たちの激しい暴力にさらされた。2日後、彼の遺体が発見され、入水自裁と公表されるが、そう断定するには疑問点がいくつもあった。
北京をこよなく愛した作家
現代中国、もう少し具体的にいえば中華人民共和国。この国のもとでは狂気の沙汰が何度か繰り返されてきた。鉄の生産量で世界一になることを目指した「大躍進」と呼ばれる運動もそうなら、毛沢東による権力奪還に端を発する「文化大革命」もそうだった。何の罪のない多くの人びとが迫害され、貴重な文化財が数知れず破壊を被った。経済も社会の滅茶苦茶になり、多数の餓死者まで出す20世紀で最大規模の人為的な災害でもあった。
元地主であることや知識人であることも、それ自体が罪とされ、多くの名のある作家たちが迫害の憂き目を見た。『駱駝の祥子』や『茶館』で知られる作家で劇作家でもある老舎もそんな犠牲者のひとりだった。
老舎の本名は舒慶春。満州族ではあるが、宮廷とは何の縁もない貧困家庭で育った。苦学して大学を卒業、教員の職も得て、そこで運よくイギリス留学の機会を得たことが彼の人生の一大転機となった。
ロンドンでの生活は6年間に及んだが、すっきり現地に溶け込んだわけではなく、重度のホームシックに陥った。それを克服するために始めたのが小説の創作だった。国内で教員生活を送るだけでは、老舎という偉大な作家は生まれなかったのだった。
帰国後も大学で教鞭を執るかたわら、小説や劇の台本を書き続けた。そのほとんどが北京を舞台とし、下層庶民の生活が詳細かつ丁寧に描かれているのも老舎の作品の特徴だった。この点については老舎夫人の胡絜青も「老舎は一生北京を描いた。老舎と北京を切り離すことはできない。北京がなければ老舎も存在しない」と述べたことがある。また老舎と親交ののあった中国文学研究家の竹内実も「老舎ほど北京を愛したひとは、まずいない」という言葉を残している。
第二次世界大戦終結後、老舎はアメリカに居を移すが、周恩来からの丁寧な呼びかけに応じ、中華人民共和国の成立後に帰国。創作活動を続けるかたわら、北京市文学芸術界聯合会の主席、中国作家協会副主席、北京市文聯主席も務めるなど多忙な日々を送っていた。
全身血まみれになるまでのリンチを受ける
特定の権力に盲従しないのが知識人のあるべき姿で、老舎もその点ではりっぱな知識人で、相手が誰であろうと、間違っていると思えば、非難の声を上げた。だが、盲従以外の生き方を知らない人びとからすれば、知識人のそのような姿勢はとうてい許しがたいものであった。
老舎の身に難が振りかかったのは1966年8月23日のことだった。文化大革命が始まってから3ヵ月が過ぎ、紅衛兵(毛沢東を絶対視する青少年組織)を中心とする「打破四旧」の運動は最高潮に達しようとしていた。「四旧」とは「古い思想」「古い文化」「古い風俗」「古い習慣」を指す言葉で、北京の伝統文化をこよなく愛する老舎とは真っ向対立する考え方であった。
それより少し前、老舎は精神的なストレスから大量の血を吐き、入院生活を送っていた。退院の許可が出たとき、しばらくは家で安静にしているよう注意されたにも関わらず、老舎はすぐさま仕事に復帰した。
執筆活動は自宅でできるが、北京市文学芸術界聯合会主席としての仕事は、そのオフィスまで出向かなければできない。悲劇に見舞われたのは退院後の出勤初日のことだった。老舎をはじめ20数人の著名な作家や芸術家が、熱狂した紅衛兵によりトラックに乗せられ、成賢街(現在の国子監街)の孔子廟(現在の北京市博物館)で降ろされたのである。
ここでいったん位置関係を説明しておこう。
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紅衛兵がその場所を選んだのは、「四旧」のもっとも集中する場所と考えられたからだろう。老舎らそこに集められた作家・芸術家たちは京劇の小道具や芝居衣装が燃え上がる炎の周辺に脆かせられ、暴言と罵声を浴びせられながら、ひどい暴力をふるわれた。老舎の身に着せられた罪名は「現行反革命分子」「資産階級の権威」「老反共主義者」「封建貴族の子孫」などからなり、20数人のなかでもっとも重傷を負わされたのも老舎で、割られた頭からは血が流れ出て、白いワイシャツ一面に鮮血がとばしっていたという。
解放されたのち、老舎は心ある市民らの手で自宅へと運ばれ、応急の手当を施された。家族から再入院を勧められたが、老舎はそれを固辞して、翌朝にはいつも通りの時間に家を出て、そのまま帰らぬ人となった。
老舎の遺体が発見されたのは25日の早朝、場所は徳勝門(北京の城門)外にある太平湖の後湖だった。
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じじぃの日記。
「私の専門は中国現代文学ですが、研究の柱が二つあります。一つは老舎(ろうしゃ)の研究です。老舎は現代中国を代表する作家で、その長編小説『駱駝祥子(らくだのシアンツ)』と戯曲『茶館』は、それぞれ20世紀中国の最高峰として高い評価を得ています」
「もう一つの柱は、日中戦争の時期に日本軍占領下の北京や上海などで活動していた、中国人文学者についての研究です。占領地域に留まった彼らの中には、動機や経緯は千差万別ですが、結果的に日本に協力した人たちが少なからずいました。これら「親日」派文学者たちの多くは裏切り者のレッテルを貼られ、長く歴史の闇に葬られてきました。私は、彼らにもう一度光を当てたいと考えています」
(https://www.flet.keio.ac.jp/research/reports/report-sugino.html)
老舎(1899~1966)・・・紅衛兵から「反革命」のレッテルを張られる。暴行、虐待、侮辱を受けた末、北京北郊の太平湖に入水自殺したとされる。
中国で「愛国主義教育法」が可決された。
来年1月1日から施行されるという。