じじぃの「人の死にざま_941_溥儀」

愛新覚羅溥儀 - あのひと検索 SPYSEE
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20110408 公視晩間新聞 末代皇帝溥儀紀録片 公視台灣首播 動画 YouTube
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ラストエンペラー The Last Emperor 動画 YouTube
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満州国 画像
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愛新覚羅溥儀 ウィキペディアWikipedia)より
愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)は、清朝第12代にして最後の皇帝。満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1964年より中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員。
中華世界の最終皇帝(ラストエンペラー)として知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝満州語でゲフンゲ・ヨソ・ハンと称され た。
【生涯】
1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の皇弟である醇親王と、光緒帝の従兄弟で、西太后の腹心栄禄の娘である瓜爾佳氏・幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。
1931年9月18日、満洲に展開する関東軍を含む日本陸軍が、中華民国奉天郊外の柳条湖で発生した南満洲鉄道の線路の爆破事件を、「張学良ら東北軍による破壊工作」と断定し(いわゆる「柳条湖事件」)関東軍満洲を根城にしていた張学良軍との間の戦い、いわゆる「満洲事変」を開始した。
溥儀は1934年3月1日に満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となる。なお、溥儀の皇帝即位に併せて国名も「満洲帝国」と呼ばれることが多くなった。元号も「康徳」に変更された(満洲国側によって当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また同時に、紫禁城時代からの教育掛で満洲国総理内務府大臣でもあり、建国前に溥儀と日本陸軍との間を取り持った鄭孝胥が国務院総理に就任した。
日満友好を促進する狙いと、満洲国並びに溥儀の威信を国内外に高めることを目的として、1935年4月に溥儀が昭和天皇の招待により日本を国賓として公式訪問する。
当時の溥儀は、年齢が近い(昭和天皇の方が5歳年長)上に自分と同じ君主制国家の国家元首であった昭和天皇の「兄弟分」であるという気持ちが強かったとされている。また、溥儀が初来日から帰国した際には「もし大満洲帝国皇帝に不忠であれば、それは大日本帝国天皇に不忠であり、日本天皇に不忠であれば満洲皇帝に不忠となる」と満洲国政府首脳部に対して訓示を行った他、2度目の訪日の際に伊勢神宮を訪問した際には「日満一神一崇」を表明するなど、大満州帝国皇帝としての自らの地位を強固にする為日本国の皇室との親しい関係を表明していた。
1950年には、ソ連と同じく連合国の1国であリ、国連の常任理事国でもあった中華民国ではなく、国共内戦ソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に中国大陸に樹立された中華人民共和国へ身柄を移された。
1962年には、看護婦をしていた一般人の李淑賢と再婚した。なお溥儀にとって最後の結婚となったが、夫婦ともども高齢であることもあり子を授かることはなかった。
その後、溥儀は中華人民共和国文化大革命の嵐が覆う中でがんに罹った。清朝皇帝という「反革命的」な出自の、溥儀の治療を行って紅衛兵に攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、周恩来の指示で北京市内の病院に入院することになった。
果たして病院に紅衛兵が現れて騒いだため、医師たちが溥儀の治療行為を行わず放置されたが、報告を受けて怒った周恩来は、病院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。しかし入院時には既に末期状態であり、治療のかいなく1967年に死去した。死ぬ間際には、晩年に好物となった「日本のチキンラーメンを食べたい」と言っていたことが溥傑の夫人である浩の伝記により伝えられている。
【映画】
ラストエンペラー(1987年、イタリア・中国・イギリス)
溥儀役:ジョン・ローンベルナルド・ベルトルッチ監督。1987年度のアカデミー賞で、ノミネートされた9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)全ての受賞を達成した。この映画は、幾つかの脚色された要素を含んでいる。

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『日本史有名人の晩年』 新人物往来社編  新人物文庫 2010年発行
溥儀 (1906 - 1967) 62歳で死亡。(一部抜粋しています)
満洲国皇帝の溥儀は、日本が敗戦を迎えた1945年8月、ソ連軍によって逮捕された。ハバロフスクでの5年にわたる収容所暮らしの後、身柄は中国政府に引き渡され、撫順の戦犯管理所で「人間改造」を受ける。59年末の特赦のときには、54歳になっていた。
出所後は北京植物園で1年の労働に服した後、中国人民政治協商会議全国委員会(以下、生協)の文史資料研究委員会の専門(専門職)に任命される。遺伝の執筆が主な仕事で、月給は百元。かなりの高給である。
62年4月、家事能力に欠ける、生協指導部の勧めに従い結婚することにした。相手は離婚歴のある中年看護婦。溥儀の熱心なプロポーズの末のことだった。
結婚して間もなく、彼は深刻な悩みに襲われる。幼児から宮女に囲まれていたため不能になっていたのだ。世間知らずの彼は、それでもツテをたどって各種の秘薬を試した。
文史資料研究委員会の同僚、沈醉は回想録の中で、「動手動脚、東模西撫、彼女に挑み、結果はいつもひとくさり罵られ事が終わるといった有り様だったらしい」と述べている。溥儀は「宦官(かんがん)は大きな苦痛を受けた後、不能になった。わたしは苦痛は受けなかったが宦官になってしまった。私の一族は跡継ぎ無しだ」と嘆いたという。
沈醉はまた、溥儀は「基本的には温暖な家庭生活を過ごしたといってよいのだが、多くの小事においては、よくわれわれ専員の前で頭を振り嘆息した」と記している。
溥儀の妻はしばしば沈醉たちの前で、「溥儀は大馬鹿だ。3歳の子供にもできることが、溥儀が手を出すと十中八九ダメになる」と罵った。
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溥儀より1つ下の弟溥傑(ふけつ)も、兄とともに捕えられハバロフスクの収容所に抑留された。そして一緒に中国政府に引き渡され、同じ撫順の戦犯管理所に収容される。特赦は60年12月。これは兄よりも1年遅い。
なぜ釈放がおくれたかについて溥儀は「理由は知らない。私より遅れて出てきた人もたくさんいる」と言いながらも「芝居のうまい人もいますからね」と笑って付け加えている。
特赦後は北京に戻り、62年5月に、やはり溥儀と同じ中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会専員となった。
違うのはここからである。兄の溥儀は表に出るのを避け、家庭人として短い余生を送ったのに対し、溥傑は文化大革命の嵐の中を生き延び、79年2月には全国人民代表大会で上海選出の人民代表となった。日本で言うなら国会議員である。
87年、彼は中国中日関係史研究会の副会長に就任し、日中友好に尽力する。しばしば来日もし、92年には初の訪中を果たした天皇・皇后の歓迎レセプションにも出席している。天皇訪中は、日中友好の最高の証として溥傑の宿願だった。
だが翌年に体調を崩し、94年2月、87歳で没する。遺言にしたがい、遺骨の半分は中国の大地に空から散布された。

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