じじぃの「人の死にざま_305_星・新一」

星新一 - あのひと検索 SPYSEE
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星新一 ショートショートの神様 その生涯 1/5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=fCLtbLSExpo
星新一 ショートショートの神様 その生涯 2/5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=HHSrHE_pHC8&feature=related
星新一 ショートショートの神様 その生涯 3/5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=aik2D8dFY1A&feature=related
星新一 ショートショートの神様 その生涯 4/5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=l4bmOodpu8o&feature=related
星新一 ショートショートの神様 その生涯 5/5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=fqOsmI5xNTQ&feature=related
星新一公式サイト
http://www.hoshishinichi.com/
星新一 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
星新一(本名・星親一、1926年9月6日-1997年12月30日)は日本の小説家、SF作家。
父は星薬科大学創立者で星製薬の創業者・星一森鴎外は大伯父にあたる。本名の親一は一のモットー「親切第一」の略で、弟の名前の協一は「協力第一」の略。イラストレーターのほししんいちとは特に関係がない。父の死後短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二西友社長)と並んで稀有な一部上場企業(当時)の社長経験者である。
ショートショート(掌編小説)を数多く残し、多作さと作品の質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショートの神様」と呼ばれ、生涯で1001編以上の作品を残す。『ボッコちゃん』、『悪魔のいる天国』、『おせっかいな神々』、『ノックの音が』など多くの短編集がある。また『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。
【略歴】
1926年(大正15年)、東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれる。母方の祖父の家がある本郷で1945年(昭和20年)まで育つ。
1948年(昭和23年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業。高級官吏採用試験である高等文官試験(現在の国家公務員I種試験)に合格したが内定を取ることに失敗。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究。1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了する。卒業論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」であった。
1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。おそらく、星の初めての作品である。
1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐも当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻。会社を他人に譲るまでその処理に追われたという。星製薬倒産の経緯は『人民は弱し 官吏は強し』にも少なからず触れられているほか、『星新一 一〇〇一話をつくった人』においてその詳細が記されている。
1983年(昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。
それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版されるつど、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。
1997年(平成9年)12月30日18時23分、東京都の病院で間質性肺炎のために死去、71歳没。
【人物】
容貌や作風から穏やかなイメージがあるが、実生活でもギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。SF仲間の集まりなど、気を許せる場では奇人変人ぶりを遺憾なく発揮していた。同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる。こうした奇想天外な発言の数々は、『星語録』として作家仲間やファンの間で語り継がれている。

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星新一 一〇〇一話をつくった人』 最相葉月/著 新潮社 2007年発行 (一部抜粋しています)
パッカードと骸骨
星一明治6年、のちに福島県石城郡錦村の村会議員となる星喜三太とトメの長男として誕生した。
維新政府の施策と、西欧の思想、自由民権という新しい言葉が時代の先端として地方に押し寄せていた明治初期に幼年時代を過ごしたことは、星一という人物を見る場合、ことに重要な背景である。喜三太は星一が小学2、3のころに、国会開設の勅語を暗記させたといい、小学校ではアメリカの教科書を翻訳したものが教本に使用されていた。
4年生の小学校を卒業後は平町の授業生養成所、すなわち小学校教員の養成所を経て小学校で教師をしていたが、東京で学びたいという志をもち、上京。満17歳で神田にある夜間制の東京商業学校に入学した。
当時は学生の渡米熱が盛んで、貨物船に乗り込んでアメリカに行って大学を卒業した、などという記事が新聞を飾ることもよくあった。星一も渡米して実業家になろうと決意、その前に国内を見ておこうと関西から九州、沖縄まで新聞の売り子などをしながら旅をした。渡米までに、東京商業学校の元校長で大阪朝日新聞主筆だった高橋健三夫妻に世話になったことは、近い将来、星一が新聞発行を手掛けるにあたり大きな影響を与えることとなった。
20歳で単身渡米。アメリカでは、アルバイトをしながらコロンビア大学に入学して経済学と統計学を学び、このころペンシルバニア大学の研究室で助手をしていた野口英世と知り合い、同郷ということもあり、生涯の親友になった。
在米日本人向けの新聞「日米週報」を発行したのは明治32年(1899)である。この仕事を始めたことが、星一の人生にたびたび大きなチャンスを与えた。日本から著名人がやってくるとそれを記事にするため取材がてら案内人を務めたことから、多くの有力者と知り合うようになったのである。
札幌農学校の教授を退官してカリフォルニアで静養していた新渡戸稲造、中央新聞の社長だった大岡育造。渡米前に通っていた英語塾の友人、安田作也の紹介で知り合った安田の親類で「東洋の国士」といわれた政界の黒幕、杉山茂丸夢野久作の父)とは、ニューヨークで再開した。さまざまに手伝いしたことから杉山には息子のように可愛がられるようになり、遅れて伊藤博文が渡米した際には、杉山の推薦で伊藤の臨時秘書として雇われた。
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こうして、星一が米国滞在期間中に築いた人間関係は、その後の人生を左右するほどの大きな財産となった。
この間、まったく縁談が舞い込まなかったわけではない。作家になってからの「新一」が父親の幼年期から青春時代を描いた『明治・父・アメリカ』によれば、女子英学塾、のちの津田熟大学を設立した津田梅子の妹、よな子と新渡戸稲造の紹介で知り合い婚約し、ダイヤの指輪を送った、とある。しかし、このときは新聞の発行と資金調達に追われ、母トメの葬儀にも帰国できなかったほど余裕のない状況である。帰国の目処(めど)もたたぬ婚約者にしびれを切らしたよな子のほうが、新渡戸を通じて婚約をとりやめたいと伝え、指輪を送り返した。
カウントダウン 1001編
祥伝社の名倉潔の記憶は鮮明である。1001編を発表する9つ目の雑誌に急遽選ばれることになったからだ。新一から突然電話がかかってきたのは、各社が1001編目の原稿を次々と受取っていたころである。
「2001って、にせんいちって読むの?」
秋に創刊予定の新雑誌名のことを聞かれた。
「いや、"にいまるまるいち"ってわれわれは呼んでいますが」
アメリカ発「ミイーイズム」(個人主義)の流入を先取りする知的サラリーマン向けの総合雑誌として創刊が予定されており、新一はその広告をどこかで見たらしかった。
「話があるんだけど」
「なんでしょう」
「ぼく、もう1編書きたいショートショートがあるんだよ」
「えっ、書くっていっても、1000本で打ち止めって公言してたじゃないですか。それにもう1000編書き終えたっていうじゃないですか。からかったらいやですよ」
「いや、冗談じゃなくて、『2001』の創刊号に1001編目を書けばあなたの雑誌のほうも話題になって、小さな目玉になるんじゃないかと思ってね。よければ、『2001』に書いて打ち止めにしたいんだ」
「わかりました。ぼくはノン・ノベルなので、『2001』の編集長に話してみます」
驚いた名倉はさっそく編集部に相談すると、目次はすでに固まりつつあったが、1000編のことは業界の話題になっていたため、即座に見開き2ページの掲載が決まった。気持ちが変わらないうちにと、名倉はその足で戸越の家を訪ねて正式に原稿を依頼。しばらく世間話をして、では帰ろうと咳を立ち上がったそのときである。
「じゃ、明日とりに来てくれる?」
「えーっ、いくらなんでもそれはないでしょう」
「いや、頭の中で全部できてるんだ
新一は真顔だった。
「わかりました。明日の午前中にいただきに上がります」
「2001」11月号掲載、1001編目「救いの声」。名倉潔、42歳。
「宝石」以来の仲で、ここ数年のショートショートを掲載し続けた「いんなあとりっぷ」の大坪直行へも、1001編目が届いた。
「もうこれでぼくはやめる。ここまで書きゃいいだろう、いやあ、よく書いたもんだなあ、もう死んだっていいや」
新一は満足げにいうので、大坪は訊ねた。
「ほんとにもう書かないの?」
「うーん。そのうち気が向いたら書くかもな」
そうか、断筆するわけじゃないんだ。まだ書く意志はあるんだな。大坪はそう思った。
「いんなあとりっぷ」12月号掲載、1001編目「なんの不満も」。大坪直行、48歳。
新一は、「エヌ氏の会」が企画するお祝いの会についての返事を書いた。これを機に会の運営方針を変更することを勧めている。
  拝復
  当日は地下鉄で行ってもいいのですが、サインに印を押したりすると、おいでいただけると助かります。
  4時ごろにいらっしゃいませんか。会の今後についての相談もしたいと思います。1001編で当分、短編は休筆になりますので、研究会とでも改名し、地味なものにしたらとも考えています。
  また、新井素子さんも、そうそう引っぱり出しては気の毒でしょう。今回だけでも、手紙でたのんだ次第です。
  読者の年令差もひろがる一方で、統制がとりにくくなるのではないでしょうか。
  1001編はめでたくもあり、めでたくもなしです。それ以後は、ムードもかなり変わるのではないでしょうか。
  なにかありましたら、前日でも当日の昼ごろでもお電話下さい。 (昭和59年9月11日付消印)
台風一過、清々しい秋晴れである。10月1日夕方6時から、東京九段の撫庵(ぶあん)「エヌ氏の会」の1001編達成記念パーティ「星コン⑦」が行われた。参加者はゲストの新井を含めて23名。名古屋の林をはじめ、全国から新一を応援し続けてきた会員たちが一堂に会した。
「もともと締め切りの前には作品が出来上がっているほうで、締め切りに追われるという思いはほとんどしなかったんですが、1001編の作品を書き上げたあと、朝の目覚めが実にさわやかです。目の前の霧のようなモヤモヤがからりと晴れた感じがして、締め切りの重圧がいかに大きかったかを今さらながら感じています」
新一に贈られたバラの花束は、あざやかな朱色のハイブリッド・ティーローズ、「スーパースター」。会員全員には、1001編記念タバコ「セブンスター」ならぬ「センスター」が新一から配られた。「星コン」のゲストとしてこれまでたびたび参加していた新井素子も、このときばかりは名残惜しく、書き続けてほしいという思いは会員たちと変わりなかった。
「みんな、2000でも3000でも書いてほしかったんです。『エヌ氏の会』で、やめてほしいと思った人はひとりもいません。実際、書いて下さいと口にする人もいました。でも、いやあ。もういいでしょう、と星さんがいったら、それ以上は突っ込めませんよね。書いている苦労はご本人しかわかりませんし、周囲がやりましょうとはいえない。私は自分自身が書いているからなおさらわかりました。いいにくいし、いいたくない。『エヌ氏の会』ってSFの読者の中では平均年齢が高かったんです。無理強いしない人たちでした」
「エヌ氏の会」設立10年。林敏夫。39歳。参加者平均年齢、おそらく30代後半。
10月28日午後6時、銀座資生堂パーラーで出版関係者向けの「星新一さんのショートショート1001編をねぎらう会」が行われた。発起人は、新一が人選した、大坪直行、小松左京真鍋博矢野徹の4名。司会進行は豊田有恒が務めた。
これまで世話になったごく親しい人々だけを招待していたのだが、筒井や新井はじめ日本SF作家クラブのメンバーはもちろん、コンビを組んできた真鍋や和田、柴野拓美、ミステリの大先輩、渡辺啓助タモリ山下洋輔赤塚不二夫篠山紀信藤子不二雄(A)、吉行淳之介ら100名以上の作家、編集者が集まった。1001編目の9編を担当した9社の編集者は、9編を収録した和田誠装幀の特製本を新一に贈呈した。
1001編の9編目はストーリーを作った順序も、下書きを書いた順序も、編集者に渡した順序も、雑誌の発売順も、いずれも別々なので、どの作品が1001編目だと特定することは自分自身にも不可能−−すべての新聞雑誌のインタビューに対し、新一はそう答えている。もっとも、主人公の名前が「エヌ氏」に落ち着く以前の作品や新一が禁忌とするセックスを正面から扱ったもの、PR誌に発表したまま忘れられているもの、さらには、本人の判断基準によって加えられなかった作品も数十編はあり、とうに1001編は超えていた。
作家デビュー作「セキストラ」から26年。星新一、満57歳。
終章 鍵
どうしてあの人はこうなのかしら・・・・。
香代子は星新一ショートショートを読み返すたびにそう思う。人がみんないなくなる。世界は滅んでしまう。静寂が訪れる。すると、機械がカタコトと動き出す。そんな物語ばかり。悲観的で、絶望的で、厭世的で、せつなくて、かなしくて。
書斎に入るとこもりきりで、原稿が書けずに苦しんでいる姿は家族にさえみせたことはなかったが、香代子は今、こう思う。
あの人はきっと、目に涙をいっぱいためながら書いていたにちがいないと。

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星新一の言葉
「われわれが過去から受けつぐべきものはペーソスで、未来に目指すべきはユーモア」
「いい作品ができるんだったら、悪魔に魂を売り渡してもいい」

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星新一 Google 検索
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