じじぃの「人の死にざま_1708_ウォルト・ホイットマン(詩人)」

【民主主義詩人】 ウォルト・ホイットマンが残した数々の言葉・名言集 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QogtHcRqLZo

A Broadway Pageant

A Broadway Pageant - by Whitman Japanese
ホイットマンの書いたサムライ使節の詩
江戸幕府から当時の米軍軍艦と咸臨丸に乗った、万延元年の訪米使節(The Japanese Embassy of 1860)が、派遣された。
咸臨丸はサンフランシスコ湾に投錨し、一行はパナマ鉄道を横断してアメリ東海岸にむかった。首都ワシントンのみでなく、一行はニューヨークの町をおとずれて、パレードに加わった。そのときの様子を見聞した、ウォルト・ホイットマンが、"The Errand-Bearers (使命を帯びた者たち)"との題で書いた詩が、1860年6月27日付の 「ニューヨーク・タイムズ」新聞に掲載されている。
http://www.home.ix.netcom.com/~kyamazak/lit/Whitman/bwayp-j.htm
『教科書が教えない歴史〈4〉』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
「毅然たる武士」を詩にしたホイットマン (一部抜粋しています)
1860年(万延元年)6月16日、日本の武士の一行がアメリカのニューヨークを訪れました。外国奉行・新見豊前守正典を正史とする日本最初の遣米使節の一行です。その目的は、1858年に調印した日米修好通商条約の批准書を交換することでした。
彼らは、アメリカの軍艦ポーハタン号に乗ってはるばる太平洋を渡りました。首都ワシントンで使節としての使命を果たした後、いくつかの都市を訪問しながら、ニューヨークに到着しました。そしてユニオン公園で行われた閲兵式に参加するためブロードウェーを馬車に乗って進みました。
沿道は日本のサムライを一目見ようとするたくさんの見物人であふれていました。その群衆に混じって、一行の様子を注意深く観察する一人の詩人がいました。彼は、そのときの思いを「使命の捧持者(ほうじしゃ)たち」という作品としてニューヨーク・タイムズ紙に発表しました。日本の武士の姿がアメリカの詩人の作品に登場することになったのです。
詩人の名は、ウォルト・ホイットマン(Walter Whitman, 1819年5月31日 - 1892年3月26日)、アメリカが生んだ代表的な国民詩人です。ホイットマンは1819年にニューヨークに生まれました。36歳で詩集『草の葉』を出版し、以後この詩集に新しい作品を増補した改訂版を次々に出版していきました。「使命の捧持者たち」も後に「ブロードウェーの行進」と改題され『草の葉』(1865年刊)に収録されました。作品の中で、日本の武士たちは次のように描かれています。
 「西方の海を越えて此方へ日本から渡米した/謙虚にして色浅黒く両刀を差した使節たちは/無帽にして臆せず、無蓋の四輪馬車に反りかえり/今日マンハッタンを練って行く」
 「言語の巣窟、詩賦(しふ)を伝えた人、往古の民族が来た/元気旺盛にして忍耐強く熟慮断行の/芳香馥郁(ふくいく)として寛(ゆる)やかに流れる衣装の/日に焦げた容貌の、不屈の魂の、炯々(けいけい)たる眼光の/婆羅摩(ブラーマ)の民族がやって来た」(白鳥省吾訳『ホイットマン詩集』)
ホイットマンは、この先品で、賓客(ひんきゃく)を迎えて東西融合の一つの世界が生まれる歓びを歌いました。日本の武士が「ブラーマの民族」と呼ばれているように、詩人にとって日本はインドを代表とする「東洋」の象徴として受け止められています。けれども、ここに描かれた「忍耐強く熟慮断行の」、そして「不屈の魂」と「炯々たる眼光」の人物たちは、ホイットマンがとらえたまぎれもない日本の武士たちの姿でした。気品と風格のある文化を背負った武士たちが、詩人の心に強い印象を与えたのでした。
     ・
ブロードウェーの行進」から8年後、武士の国日本は明治日本に生まれ変わり、やがて「両刀を差した」姿はみられなくなります。けれども、作品に歌われた毅然とした武士たちの、国を思う志が明治日本を築いていったのです。