じじぃの「人の死にざま_290_上村・一」

上村一夫 - あのひと検索 SPYSEE
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北原ミレイ ...懺悔の値打ちもない  上村一夫の劇画の世界 動画 YouTube
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上村一夫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
上村一夫(かみむらかずお、1940年3月7日-1986年1月11日)は、日本の漫画家。
その作風から『昭和の絵師』とも呼ばれた。
神奈川県横須賀市に生まれる。1964年、武蔵野美術大学デザイン科を卒業。在学中よりアルバイトで勤務していた広告代理店、宣弘社のイラストレーターとして広告制作に携わる。
1967年、アメリカの雑誌『PLAYBOY』風のパロディ漫画『カワイコ小百合ちゃんの堕落』を『月刊タウン』創刊号に発表。これが漫画家としてのデビューとなる。1968年には、宣弘社の同僚で放送作家としても活動していた阿久悠(のちに作詞家、小説家)と組み、『平凡パンチ』にて『パラダ』の連載を開始。本格的な漫画家活動に入る。
大正の浮世絵師と呼ばれた竹久夢二を連想させる女性像と独特の劇画タッチの画風を確立し、『ヤングコミック』、『週刊プレイボーイ』、『漫画アクション』、『ビッグコミック』等の雑誌を舞台に多くの連載を手がけ、最盛期には月産400枚という驚異的な執筆量をこなした。『修羅雪姫』、『同棲時代』、『しなの川』、『悪魔のようなあいつ』、『サチコの幸』など、映像化された作品も多い。
1985年11月、下咽頭腫瘍で入院。1986年1月11日没。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
1月11日−上村一夫 (劇画家・45歳)
そのあまりにも早過ぎる死は劇画界の大きな損失だった。
イラストレーターもどきの要レいな画は上村流のエロスを構築して余りあった。
むろん、その代表作は言わずと知れた『同棲時代』だろう。今日子と次郎が都会の片隅で愛し合い、また傷つけ合って暮らしてきた日々・・・・。
同棲というそれまでの陰湿なイメージを一変させ、何やら若者たちにカッコいい愛の形として一つの"市民権"すら与えてしまった功績がこの『同棲時代』にはあった。

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『生きっぱなしの記』 阿久悠/著 日本経済新聞社 2004年発行 (一部抜粋しています)
時代が来た (一部抜粋しています)
上村一夫との再会は、妻に予言した通り『平凡パンチ』がきっかけになった。平凡パンチの創刊第一号が、昭和39年4月28日である。そして、ぼくと雄子との結婚式が3月19日と、ほんのちょっと前であるから、僕は新婚早々、「上村一夫はきっと平凡パンチにイラストを描く。気をつけて見ておいてくれ」と言っていたことになる。
神がかり的なことを言うようだが、数年前、わずか半年間同僚であっただけの彼の体質のようなものを、僕は強烈に覚えていた。そして、それは、この新週刊誌が創り出す風俗や文化に合致するものだと思っていたのである。
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ぼくは上村一夫とは、平凡パンチが創刊されて間もなく再開したと思っていたのだが、今あらためて記録を調べてみると、昭和43年春ということになっている。随分記憶にズレがある。ということは、その間双方にいろいろあったということで、ぼくらの世代はどういう立場であれ、日々いろいろあるのが普通である。昭和43年とわかってみると、ぼくが上村一夫に会いたいと渇望したのも、単なる優しさや友情によるものだけではなく、もっと切実な思いで相棒を求めていたことに気づくのである。
その頃、ぼくは少しずつ作詞を始めていた。放送作家の仕事の流れから、そういうことになった。グループサウンズのブームをきっかけにして、新しい作詞家、作曲家が求められる空気になり、ぼくもまた新しい一員として書いていた。
本来、強固な専属制度で構築されているレコード業界に、外部の才能を受け入れることは考えられないことであったが、大津波のようなグループサウンズのブームがそれを打ち砕いたのである。若いコピーライターや放送作家がいっせいに詞を書き、バンドの一員が時代の感覚に合った曲を書いた。最初はおそらく、単なるハシカのようなブームと思われていたのだろうが、結局は専属制度崩壊に繋がるのである。
上村一夫から少し話が外れたようだが、実はそうではない。昭和43年春に、ぼくが上村一夫に会いたいと長文の手紙を書いたのは、彼を作曲家にしようと思ったからである。作詞を始め、型破り名新しい詞をと意気込んでも、それを理解し、表現してくれる作曲家と組まなければ不可能だと痛感していたので、相棒が必要になった。その時上村一夫を思い出したのである。彼とは宣弘社時代、昼休みの退屈しのぎに、数曲の歌を創っていた。彼がフラメンコ・ギターの名手であると、わかったからである。ぼくが詞を書き、彼が曲を付け、昼休みに歌っただけのことであるが、流行歌離れのした面白い曲であった。新しかった。
そんな目的で再開したのだが、結局2人で劇画をやろうということになってしまったのである。ぼくがシナリオを書き、彼が作画する。それを平凡パンチに彼が持ちこむと、半年の連載が決まり、ぼくらは慌てた。劇画は『パラダ』という実にアナーキーな時代劇であった。

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