じじぃの「人の死にざま_1040_H・カーン」

ハーマン・カーン - あのひと検索 SPYSEE
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Margaret Mead, Herman Khan, William Irwin Thompson - nuclear power 動画 Youke
http://www.youtube.com/watch?v=1-QwGBDbd3M
ハーマン・カーン(Herman Kahn)
・「日本未来論によせて」 中山伊知郎
・「二十一世紀の日本」 ハーマン・カーン/岩畔豪雄
・「大学問題について」 ハーマン・カーン/岩畔豪雄
・「世界のなかの日本」 ハーマン・カーン/岩畔豪雄
・「対談・宗教と科学の未来」 ハーマン・カーン/岩畔豪雄
・「ハーマン・カーンー人と思想」 酒井堅次
http://homepage1.nifty.com/ta/sfk/kahn_h.htm
ハーマン・カーン ウィキペディアWikipedia)より
ハーマン・カーン(Herman Kahn、1922年2月15日 - 1983年7月7日)は、アメリカ合衆国の未来学者、軍事理論家。一般システム理論の論客として知られる。シンクタンクのハドソン研究所創設者。京都産業大学学事顧問。
ニュージャージー州ユダヤ系の一家に生まれる。10歳で両親の離婚に伴い、兄弟と共にカリフォルニア州に移住。カリフォルニア大学ロサンゼルス校に入学して、物理学を専攻した。第二次世界大戦中はビルマ戦線で通信兵として従軍し、中性子爆弾の開発者となったサミュエル・T・コーエンの引きで1947年にランド研究所に入所。カリフォルニア工科大学で博士号を取得し、冷戦下における戦略分析に従事した。
1959年にプリンストン大学に出向し、ランドに戻ると『水爆戦争論』を上梓。核戦争下の民間防衛について論じたこの本は、死の灰の影響を低く評価し限定核戦争を肯定するなど多くの批判に晒された。しかし一方ではバートランド・ラッセル核兵器による平和の達成を不可能だと論証したと評価するなど、平和主義的立場から(本来の意図とは違う意味で)評価されたりもしている。
その後関心を未来学に移し、1961年にランドから独立してハドソン研究所を創設、所長となった。1970年には『超大国日本の挑戦』を著し、「21世紀は日本の世紀」と断言。「2000年頃に日本の国民一人当りの所得がアメリカと並んで世界一のレベルに達する」「軍事的にはアメリカの、経済的には中華人民共和国の影響下に置かれる」などと予想した。

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『もし、日本という国がなかったら』 ロジャー・パルバース/著、坂野由紀子/訳 集英社インターナショナル 2011年発行
世界には、誠実で正直な日本が必要だ (一部抜粋しています)
師と仰ぐ若泉先生にも、深い泥地のぼくの自宅からほど近い、京都産業大学の上賀茂キャンパスでよく会いました。その若泉先生があるとき、産大の講演に世界的に著名な歴史家アーノルド・トインビーを招きました。ぼくはトインビーとベロニカ夫人の案内役を命じられました。
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若泉先生が産大に招いたもう一人の大物ゲストは著名なアメリカの未来学者ハーマン・カーンでした。ぼくはまたカーン教授とジェーンの通訳兼ガイドを申し付けられました。
カーンは軍事戦略家で、来日の目的は、日本が「新たな超大国になった」ことを賞賛するためでした。当時は偉大な戦略地政学者とされていましたが、極端な終末論的ゲーム理論をとなえる人物でもあり、ピーター・セラーズが演じた1964年公開の映画『博士の異常な愛情』(副題は「または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」)の主人公ストレンジラブ博士のモデルの一人でした。作中の博士のせりふには、カーンの文章をそのまま流用したものがありました。
カーンによれば、核戦争とは、現実に起こる可能性がきわめて高いものであり、また勝つ方法もあるのだといいます。彼は、数千万人の犠牲者が出るのは「許容範囲」であるなどと言ってはばかりませんでした。
いまではもうあまり知られていないかもしれませんが、ハーマン・カーンは自称日本通で、1979年には『Tne Japanese Challenge(日本の課題)』という共著書を出版しました。しかし彼が1969年に来日し、ぼくが通訳をしたときには、彼は日本のことをなにも知りませんでした。
カーンの来日は自由民主党の幹部に大歓迎されました。当時、佐藤栄作首相は、1月に迫るせんけでの苦戦が予想されており、カーンの描く新たな超大国日本というバラ色の未来図は、与党である自民党にはありがたいものでした。カーンは日本とその首脳陣をほめちぎりました。そして日本の世論は、海外からの影響を受けやすい。この国では、アメリカの著名人の発言のほうが、国内の政治家の言葉よりも影響力を持つのです(これはいまの日本にもある程度当てはまる)。
しかし、カーンが「商人の町」大阪で起業家むけに講演したときには、日本は世界を21世紀へと導くリーダーだという彼の説に、聴衆は懐疑的な視線を浴びせ、眉をひそめました。大阪商人の世界は本来、東京のビジネス界のように理念的でなく、「アメリカ人専門家」の日本に関するご意見は、かなりあやしいものとして受け止められたのです。
ある晩、ハーマン・カーン夫妻と、京都の木屋町四条上ルにあるぼくの好きな天ぷら屋で夕食をとりました。
カーンはぼくに言いました。「この国は1985年までには核武装するだろう。核抑止力なしに経済大国になることは不可能だからね。大阪の経営者たちはああ言っていたが、日本は今世紀までに、アメリカを超える経済大国になるだろう」
ぼくは「そうですか、ずいぶん先の話ですね」と言いました。30年以上も先の日本を想像しようとしながら。
「でもこの国は核に対するアレルギーはかなり強いですよ」
「そんなアレルギー、あと20年ももたないさ」
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ハーマン・カーンは、ぼくが案内役をつとめた1969年の旅のあいだ、アメリカについて大いに語っていました。彼は独善的なアメリカ的価値観を手放しで賞賛する、いまでいうネイコンの原型です。核戦争による人類滅亡に関する彼のゲーム理論は、大胆でグローバルなものだったかもしれません。しかし子細に検討してみれば、彼が国際派をよそおった愛国主義アメリカ人だったことがわかるはずです。ぼくは、発言力のあるアメリカ人で日本を賞賛している人は多いけれど、彼らの目的はただ一つなのだと気づきました。それは、日本に対米支援に一層力をいれてもらうことです。彼らの日本賞賛には下心があったのです。ぼくの頭には「敵は本能寺にあり」という言葉が浮かびました。
でも一番おそろしかったのは(それでいまカーンについて書いているわけですが)、彼がある国、この場合は日本の、文化も生活様式も精神も心もまったく知らずに、その国を理解できると考えていたという事実です。
ぼくは一国の文化に対する理解を「無理に身につけた」と言うような専門家たちを常に恐れてきました。未来学者カーンは1983年にこの世を去りました。2年以内に日本は核兵器を所有するという予言の当否を、彼が自分で確かめることはついにありませんでした。

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