じじぃの「波乱万丈・世界に飛び出した高校生の新たな出会い!ぼくはアメリカを学んだ」


 オカリナ

ぼくはアメリカを学んだ 感想 鎌田 遵 読書メーター
1989年、高校生活を中断してユーラシア大陸を横断。出会った日本人はみな「危険だから引き返せ」と言った…。
高卒後、アメリカへ「語学留学」、日本人ばかりの研修では何もならないと中退、放浪…。ニューメキシコ州で「あそこだけは行ってはいけない」と誰もが言うサンティアゴに逗留、話されるのはほとんどスペイン語…。
合衆国で行われているのは日本のような優しい差別ではない。紆余曲折あって「マイノリティー文化を研究したい」との願書が認められバークレー大学に入学…。
http://bookmeter.com/b/400500556X
『ぼくはアメリカを学んだ』 鎌田遵/著 岩波ジュニア新書 2007年発行
バークレーの日々 (一部抜粋しています)
1994年8月下旬、「辺境」のニューメキシコ。そのさらに「辺境」ともいえるエスパニョーラから、いきなり西海岸のサンフランシスコにちかいバークレー市に到着したぼくは、まず大学のキャンパスの大きさに度肝を抜かれた。学生数3万強をかかえるこの総合大学は、まるで自然公園のようだった。全員が顔見知り、昼休みになれば、教授と学生がともに気軽に昼食うをとるエスパニョーラの短大とくらべると、すべてがあまりにちがい過ぎた。
大学のちかくにある編入してきた学生が多く住む寮に入って、友だちもふえていった。引っ越してすぐ、オリエンテーションに行くと、「バークレーは全米で一番優秀な公立大学です。あなたがたは選び抜かれた学生なのです。そうこそ」と歓迎される。ぼくはそれまで、大学にランキングがあることさえ知らなかったので、そんな話はピンとこない。ちなみにこの年に、カリフォルニア州外の短大から、バークレー校に編入したのは、ぼくともうひとりだけときかされる。
バークレーでは日本人の学生にもなん人は会った。日本の名門高校に通いながら、15歳のときからバークレーで勉強するのを夢みてきた学生もいる。エスパニョーラではどんな人に会っても大丈夫だったが、ぼくはこういう学生とはあまり話があわなかった。
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エスパニョーラの短大では「Never too late」、いまからでも遅くはないといわれていた。その言葉には、もう一度「やり直す」という意味あいがこめられている。一方、バークレーでは「Never too early」何かを準備するのには早すぎることはない、とまったく逆のことをいわれる。人生は「やり直す」ものではなく、最初から目標を定め、迅速にゴールすることが必要であるというのだ。ここでは寄り道している余裕はない。すべてのことを早めに準備しておかないと生き残れない。
自分の勉強方法をみつけられないまま、キャンパス内に20以上もある図書館を右往左往しているうちに、あっという間に最初の学期が終った。

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どうでもいい、じじぃの日記。
図書館の中で、アメリカを舞台にした軽い読み物がないか探したら、鎌田遵著 『ぼくはアメリカを学んだ』という本があった。
高校生が、中国、パキスタン、イランと放浪の旅に出かけ、そして、アメリカのニューメキシコ、カリフォルニアへと向かう。
旅の途中で出会った人々とは「オカリナ」(ハーモニカみたいなもの?)を演奏し、友だちになっていく。
高校で落ちこぼれだった少年が、あの名門 カリフォルニア大学バークレー校(2015年世界大学学術ランキング4位)に入学する。
「キャンパス内に20以上もある図書館を右往左往しているうちに、あっという間に最初の学期が終った」
大学構内に図書館が20以上もある。すごいですねえ。