じじぃの「人の死にざま_286_盛田・昭」

盛田昭夫 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%9B%9B%E7%94%B0%E6%98%AD%E5%A4%AB/4953/
Tom Snyder with Sony Founder Akio Morita - 1980 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ncr1-j3Y2fk
Akio Morita Sony 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=jIbe-HlxyiY&feature=related
盛田昭夫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
盛田昭夫(もりたあきお、1921年1月26日-1999年10月3日)は、日本の技術者、実業家。井深大とともにソニー創業者の一人。1992年、名誉大英帝国勲章を受勲。
【経歴】
愛知県知多郡小鈴谷村(現・常滑市小鈴谷町)に盛田久左衛門 収子の長男として生まれる。生家は代々続いた造り酒屋で父・久左衛門は盛田家第14代当主。母・収子は元大垣共立銀行頭取戸田鋭之助の娘であり、元仙台市長・早川智寛の姪、会社再建の神様といわれた早川種三の従兄弟にあたる。また、三省堂創業家・亀井家とも姻戚関係にある。
愛知県第一師範学校付属小学校(現・愛知教育大学附属名古屋小学校)、旧制愛知県第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校(現・名古屋大学)、大阪帝国大学理学部物理学科卒。
太平洋戦争中、海軍技術中尉時代に戦時科学技術研究会で井深大と知り合う。
終戦後、1946年(昭和21年)に井深大らとソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し、取締役に就任。
1950年日本初のテープレコーダー「G型」を発売。
1951年三省堂社長令嬢亀井良子と結婚。
技術者出身ながら、営業の第一線で活躍し、トランジスタラジオ、ウォークマン等を世界に売り込んだ。
井深大とともにソニーを世界企業に育て上げ、井深の技術的発想を実現すると共に、ソニーの発展を第一として活動し続けた。
また、あまり知られてはいないが、彼の最大の能力は、資金調達にこそ見られる。松下などに比べ、その規模で、はるかに劣る当時のソニーが、技術開発の資金を調達することは、並大抵の努力では出来なかったことは想像に難くない。しかし盛田は見事にそれをやりぬき、トリニトロンウォークマンの商品化を実現する。
私人としては、社交性に富み、非常に親しみやすい、と言われる反面、十数代続く造り酒屋の跡取りとして、厳格な一家の家長であったと言われている。ただし子息に自己の思考を押し付けたり特定の学校への進学等を指図する事はなかったという。
「日本は福祉国家ではない」が持論で大きな政府に否定的な立場であったとされる。
1989年(昭和64年)に政治家の石原慎太郎と『「NO」と言える日本──新日米関係の方策』を発表しミリオンセラーとなった。同著では対米関係の見直しを直言するなど論客としても知られたが派手な言動は人により評価が分かれ、ともに日米経済人会議の議長に擬された経団連副会長の佐波正一(東芝)と好対照と視る向きもある。

                                        • -

TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 1999年発行
トランジスタのグル】盛田昭夫 【執筆者】大前研一 (一部抜粋しています)
盛田の並外れた意欲を説明するのにもっともふさわしい方法は、脳卒中で倒れる直前の2ヵ月間のスケジュールに身を通してみることだ。彼は東京の本拠地からニュージャージー、ワシントン、シカゴ、サンフランシコ、ロサンゼルス、サンアントニオ、ダラス、英国、バルセロナ、パリに出向いていた。この期間に、エリザベス女王ゼネラル・エレクトリックジャック・ウェルチ会長、未来のフランス大統領ジャック・シラクアイザック・スターン、その他大勢の政治家や官僚や実業家たちと会った。コンサートに2度、映画に1度出かけ、日本国内を4度旅行し、8つのレセプションに姿を見せ、ゴルフを9ラウンド回り、結婚式に主賓として出席し、その上、17日間は通常どうりソニー本社に出向いて仕事をこなした。盛田のスケジュールは1年以上前に決まっていた。少しでも空き時間があると、すぐさま大局的見地から、知り合いになりたい人、あるいはしばらく会っていない人に会うよう手配してしに時間を埋めた。企業のピラミッドのてっぺんにいると、ほかの社員から遠ざかる重役が多いものだが、彼はいつもその社員の真っただ中にいた。
盛田は、14代続いた家業を継ぐべく、小学校3年の時からしつけられていた。盛田の家は名古屋の有名な造り酒屋だった。だが、真の起業家精神を持っていた盛田は、戦後日本のがれきの中で、そうした居心地がよく特権に恵まれた人生を捨て、海の物とも山の物ともつかない東京通信工業という新会社を選んだ。
盛田のマーケティング・コンセプトは最初から、ブランド名の認知とブランドが持つ責任にあった。つまり、そのブランドの名前があれば即座に高品質だとわかるというものだ。これは現在、数々の企業で広く使われているマーケティング・コンセプトだ。だが、当時、日本の大半の企業は他社のブランド名で生産していた。たとえば、ペンタックスはハネウエル向けの、リコーはセイビン向けの、サンヨーはシアーズ向けの製品を作っていた。
ブランド認知度を重視するという盛田独特の考えを補完したのが、共同設立者である井深大の才能だった。井深は、ソニーの発明を技術面および製品設計面から支える原動力だった。このコンビは成功した。ふたりは消費者に利用できる最高の技術と品質を提供しようとした。ソニーの初期の製本のひとつが、1955年に作られたトランジスタラジオである。トランジスタベル研究所が開発し、ウエスタン・エレクトリック社が生産したものだが、1957年にソニーがそれを最初に小型ポケットラジオに使い、それと同時に新たな市場を創出した。
ポケットラジオの成功は、8インチテレビやビデオテープレコーダーなど、トランジスタを使った第1号製品がさらに生まれるきっかけとなった。製品設計、製造、マーケティングにおけるソニーの偉業は、「メイド・イン・ジャパン」のイメージを安っぽい模造品という概念から優れた品質を連想させるものへと変えた点にある。盛田自身の言葉を借りれば、彼らはソニーをエレクトロニクスの最高級品の代名詞にしたのだ。
ソニーという命名は、盛田の直感と世界を相手にしたいという意志を強く反映している。彼は世界中どこに行っても通じる名前にしたかった。独創的で、ローマ字つづりで、短く、脳裏に焼きつくものだ。盛田と井深は熱心に辞書を調べ、sonusという言葉を見つけた。これはラテン語で音という意味だ。さらに、sonny(若造)という言葉は当時のアメリカのポップカルチャー特有の言語のひとつだった。そして、これはあり余るエネルギーを抱えた若い人たちから成る会社を連想させるものだと彼らは考えた。
ふたつの言葉を組み合わせて、Sonyが生まれた。
ソニーのグローバリゼーションは米国で始まった。1963年、盛田は家族全員で米国に移住した。そうすることで、彼はアメリカ人やその市場。週刊。ルールを学び、その結果、会社は成功へとまた一歩近づいた。それは素晴らしい決断だった。当時、こうした熱意にあふれ、断固たるビジネス・ビジョンを持っているビジネスマンは多くはなかった。米国で、盛田はマンハッタンの5番街の大きなアパートに移った。彼はいつも人づき合いを大切にし、平日にパーティーを開き、揺るぎない貴重なネットワークを構築した。彼はこの習慣を生涯、守り続けた。
盛田は仕事中毒だったが、遊びも非常に熱心だった。彼は常に美術や音楽に関心を持ち、スポーツ狂だった。60代で、ウインドサーフィンとスキューバダイビングを始め、冬の間の運動不足解消のためにスキーを始めた。水上スキーに夢中になって、耐水性のマイクまで作った。マイクをハンドルに取りつけ、スキー・ロープに電線を張って船上のスピーカーとつなぎ、妻の良子に指示を送れるようにしたのだ。彼はこの発明品がたいそう自慢だった。ただ楽しく時を過ごすためだけに、彼はよくこうした製品を考えては実用化していた。
ウォークマンもこうして生まれた。自分の子供たちや友人らが朝から晩まで音楽をかけているのを盛田は見ていた。彼は、人々が車の中で音楽を聴いたり、大きなステレオを浜辺や公園へ持っていくのに気づいた。おおかたのソニーの技術部門の人間は、録音機能のないカセットプレーヤーというコンセプトには反対していたが(録音機能は後につけ加えられることになる)、盛田は引き下がろうとはしなかった。彼は高機能のカーステレオのような音で、しかも持ち運びが可能で、ユーザーが何かほかのことをしながら聴ける製品の開発を主張した。−−かくして、ウォークマンが誕生した。
ソニーアメリカはそれを英語として(文法的に)おかしいと考え、米国向けにはサウンドアバウト、スウェーデン向けにはフリースタイル、英国向けにはストウアウェイと名を変えた。国ごとに違う名を使うことに盛田は懐疑的だった。そして、売れ行きが期待を下回ると、盛田はその名を世界共通のソニーウォークマンに変えた。その後、ウォークマンは世界的なヒット商品となり、その言葉はいまでは主要な辞書に載るまでになった。
ソニーを世界経済における重要な一企業に育て上げたこの男には、そのイメージに相反する、と同時に互いに補い合う、愛国主義者の面もあった。彼と話をしている時もそうだが、こうした点は、彼のベストセラー『メイド・イン・ジャパン』を読んでいる時にも感じられる。その二面性についてわたしが苦言を呈すると、彼はニヤリと笑い、「大前さん、それはジェネレーション・ギャップだよ」と答えたものだ。元海軍士官の彼が兵役から戻った時、日本経済は壊滅状態になっていた。それで彼は長い間、「ジャパン・ファースト」の考え方を取り続けた。彼の初期の目標はただ、戦争で廃墟と化した日本の復興に向けて貢献することだけだった。

                                        • -

盛田昭夫 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=EoL8S4fJPI3ZcamtsPAB&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCoQsAQwAA&q=%E7%9B%9B%E7%94%B0%E6%98%AD%E5%A4%AB%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1