じじぃの「世界初の家庭用CDプレーヤー・ソニー・CDP-101!国産はじめて物語」

Billy Joel - ZANZIBAR 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eAgW5hbp_Y4
ベートーヴェン - 交響曲第7番〜第2楽章 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=o6X15CuTUeY&feature=related
SONY CDP-101
記念すべき日本初のCDプレーヤ。このプレーヤからCDの時代が始まりました。
http://nationalmaclord.web.fc2.com/cdp101.html
30秒でわかる、音楽メディア30年間の変遷の歴史  GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20110829_music_industry_change/
音楽CD Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E9%9F%B3%E6%A5%BDCD+%E7%94%BB%E5%83%8F&sa=X&oi=image_result_group
コンパクトディスク ウィキペディアWikipedia)より
コンパクトディスク(英: Compact Disc、CD)とはデジタル情報を記録するためのメディアである。光ディスク規格の一つでレコードに代わり音楽を記録するため、ソニーとフィリップスが共同開発した。2011年現在ではコンピュータ用のデータなど、派生規格の普及により音楽以外のデジタル情報収録にも用いられる。音楽CDについてはCD-DAも参照。
【コンパクトディスクの歴史】
・1977年、フィリップスがCDの開発を開始。
・1979年、フィリップスがCDプロトタイプを示し、ソニーと共同開発を開始。
・1982年、CDの生産が開始。10月1日、日本でソニー、日立(Lo-Dブランド)、日本コロムビアDENONブランド、日立のOEMで発売)から世界初のCDプレーヤーが発売。ソニーの第1号機はCDP-101で168,000円、日立の第1号機はDAD-1000で189,000円、日本コロムビアも第1号機は日立製と同じ値段だった。同日、CBSソニー、EPICソニー日本コロムビアから世界初のCDソフトが発売された。初回発売はCBSソニー、EPICソニーが合わせて約50タイトル、日本コロムビアが10タイトルだった。同時にレコード店で取扱いが始まり、当初は「レコードよりも音質がよく、ノイズがないニューメディア」として扱われた。レコードと同じ商品のCD版として売られ、価格もレコードよりも約2割ほど高かった。当初、ソフトの値段は各社共にデジタル録音の音源による物が1枚3,800円、アナログ録音の音源による物が1枚3,500円だった。楽曲説明を載せた印刷物は現在の様に中綴じ製本されたものではなく、LPと同じライナーノーツを4つに折ってCDケースに入れる例が多かった。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
ヘルベルト・フォン・カラヤン (1908-1989) 81歳で死亡 【執筆者】高橋哲也 (一部抜粋しています)
1887年7月16日、81歳のヘルベルト・フォン・カラヤンザルツブルク郊外の自宅で、ベッドに横たわっていた。
「医者は、この私が心臓病だというんだよ。ペストだというなら分かるがね」
3日前にはそんな冗談を飛ばして見舞いに来た友人を安心させた。
間近に迫ったザルツブルク音楽祭では、今年もまた主役を演じるつもりだったし、何より、これから訪ねてくる日本人の紳士と、この数年にわたり心血を注いだ事業について相談しなければならなかった。
客が着いたのは昼だった。執事が2階の寝室に案内した。
古い農家を改造した自宅は質素だった。寝室は20畳ほどもある広さだが、使いこまれたクロゼットのほかに目立った調度はない。ベッドに半身を起こし、彼は遠来の客を上機嫌で招き入れた。
スーツ姿の日本人客はソニー大賀典雄社長(現・相談役)だった。
「何で来たかね?」
いつものあいさつだ。自家用ジェット機を操縦してきたのか、それとも旅客機か・・・・。2人は音楽のほかに、ジェット機操縦という共通の趣味を持っていた。
カラヤンは本題に入った。
「実は、演奏をLD(レーザー・ディスク)で出したいんだがどうだろうか」
LDはデジタルで映像と音声を同時に収録再生する最新愚術だ。CD(コンパクト・ディスク)の澄んだ音に、解像度の高い映像が組み合わされている。まだ普及していないが、ビデオに代わるメディアとして期待されていた。大賀さんが自分の考えを語る。カラヤンは熱心に耳を傾けた。
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カラヤンの音楽の美しさは、その天性の才能のたまものだった。正確なテンポ。何十もの楽器の音を1つの音の固まりに仕上げる技術。「流線型の美」と評する者もいた。
レパートリーの広さも強みだった。ドイツ・グラモフォン社で長く音楽プロデューサーを務めたギュンター・ブレストさんは、オペラの録音に入れ揚げているカラヤンに「売れるものを録音してほしい」と泣きついたことがある。
カラヤンはいやな顔もせず、売れ筋のレコード制作を引き受けた。人気の高い交響曲などは、同じ曲で5枚も6枚も新盤を出した。
その彼が、愛したレコードを「古くさいガス灯」と切り捨てる。CDの登場だった。
78年秋、来日中のカラヤンソニー盛田昭夫会長の自宅に招かれた。そこでリハーサルの録音を聞かされる。ソニーが開発したデジタル録音のテープだった。
練習中の録音をきらうカラヤンは顔をこわばらせた。しかし次の瞬間、目を輝かせて立ち上がった。
「素晴らしい。これは全く新しい音だ。こんなクリアな音は聞いたことがない」
カラヤンは以来「デジタル派」になる。転向の仕掛け人は、当時ソニーのオーディオ事業本部長、中島平太郎さんだった。中島さんは後で手紙を書く。
「リハーサルを録音したことでご気分を害されたようですが、技術の流れはもう変えられません」
本人から返事が届いた。
「今度はテープではなく、ディスク上のものにデジタル録音してもらいたい。ザルツブルクで私が宣伝します」
約束は、CDの開発発表会で果される。CDの登場でドイツ・グラモフォンは83年から86年にかけ、創立以来の売り上げを記録した。
日本でも、CDは87年から急激に売り上げを伸ばす。CDプレーヤーは据え置きタイプだけで年間100万台以上が売れた。翌88年にはCDがレコードの販売を上回る。大賀さんたちが考えた音楽のデジタル革命は大成功を収めた。
カラヤンが最後の夢をかけたLDは期待したほど成功しなかったが、レコード、CDなど500枚ものカラヤンの音楽的遺産は、いまも世界のファンを魅了している。
録音された曲の中からアダージョ部分ばかり集めて95年に発売されたCD『アダージョカラヤン』は世界で500万枚が売れ、クラシックとしては異例の記録をつくった。
関係者は、「彼の録音がどれも高いレベルだったこらこそできたことです」という。

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『国産はじめて物語―世界に挑戦した日本製品の誕生秘話』 レトロ商品研究所/編集 2003年発行
世界初の家庭用CDプレーヤー 「CDP-101」 (一部抜粋しています)
CD(コンパクトディスク)の直径は何センチ? ――答えは12センチ。実はこれには深いわけがある。
昭和54(1979)年頃、オランダのフィリップス社がソニーにデジタルオーディオディスクの共同開発を持ちかけてきた。そのときフィリップス社は、直径11・5センチを主張していた。11・5センチのディスクに60分の録音が出来る、それで充分だと言うのだった。ソニーは、12センチ・75分でなければ、だめだと反論した。ベートーベンの交響曲「第九」が1枚に収まるようにしたいと。結局ソニーの主張が通って12センチということになったのだが、このときソニーが例にあげた「第九」は、どうもカラヤン「第九」だったらしい。フィリップスとの提携の話が出る何年も前から、ソニーは音を1と0の符号に変換するデジタル録音の研究をしていた。しかし、デジタルの音は音楽関係者にはなかなか理解されず、反発を受けることも多かった。そんななか、デジタルの技術に早くから注目し、CDの完成まで一貫して協力してくれていたのがカラヤンだったのである。
ディスク自体は直径わずか12センチだが、そこには膨大な量の情報が収められている。1枚のCDにはピットと呼ばれる小さな凹みが20億個も並べられているのだ。ディスクから情報を読み取るピックアップにはレーザーが用いられるのだが、当時実用化されていたビデオ・ディスク用のガスレーザー装置は、長さが20センチもあって、CD用には大きすぎた。また、高度なデジタル処理には500個ものIC(集積回路)が必要だったし、DAコンバーターという部分は高価な部品の組み合わせで30万円もかかってしまう。これらの問題を解決しなければ、一般のユーザーが使うような小さくて安価なプレーヤーにはならない。まず、ピックアップの問題は、新しく半導体レーザーというものを採用してクリアした。さらに、わずか3個でIC500個分の働きをするLSI(大規模集積回路)が開発され、DAコンバーターも1万円程度のIC1個に収めることに成功した。
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昭和57(1982)年、ソニーは世界で最初の、家庭用CDプレーヤー・CDP-101(16万8000円)を発売した。「ゴロンタ」と違ってディスクを水平にセットする方式を採用して随分とスマートになっていた。ちょうどその頃、日本では貸レコード屋というものが大流行していた。若者たちは、1枚2800円ほどのLPレコードを一晩2〜300円で借りてきて、カセットテープに録音して手軽に音楽を楽しんでいた。CDには、音がいい、データが透明な素材の内側に記録されているので傷に強い、小さくて扱いやすい、など多くの特長がある。だが、レコードに替わってCDが普及していくのに肝心なのは、やはり魅力的な音楽ソフトだ――そう考えたソニーは、プレーヤーの開発と平行してソフトの準備も着々と進めていた。CDP-101の発売と同時に、グループ企業のCBSソニーが世界初のCDソフト50タイトルを一挙に発売した。ちなみに記念すべきCDソフトの生産第1号はビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』だった。
その後数年のあいだにCDプレーヤーとCDソフトは急速に普及し、街の「レコード屋さん」もすっかり「CDショップ」に様変わりした。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、『国産はじめて物語―世界に挑戦した日本製品の誕生秘話』という本を見ていたら、「世界初の家庭用CDプレーヤー 『CDP-101』」というのがあった。
「昭和57(1982)年、ソニーは世界で最初の、家庭用CDプレーヤー・CDP-101(16万8000円)を発売した」
昭和57年(1982年)か。ネットで「昭和57年」をキーにして調べてみた。1月にロッキード事件全日空ルートで同社幹部6人に執行猶予つき有罪判決があった。2月にホテルニュージャパン火災発生で33人が死亡した。 4月に植田まさしの4コマ漫画「コボちゃん」が読売新聞朝刊で連載開始した。 4月に500円硬貨が発行された。同4月にアルゼンチンとイギリスと領有権を争ってフォークランド戦争が勃発したが、6月に紛争終結フォークランド諸島の領有権はイギリスが獲得)した。 7月に国際捕鯨委員会で1986年からの商業捕鯨全面禁止案が採択した。しかし日本は1987年、南極海でミンククジラ捕獲調査を開始した。8月にフィリップスが世界初のCDを製造した。9月に国鉄リニアモーターカーが世界初の有人浮上走行実験に成功した。 10月にNECが「PC-9801」を発売した。 11月に第1次中曽根内閣が発足した。歌では、あみんが「待つわ」を、細川たかしが「北酒場」を、松田聖子が「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」を、サザンオールスターズが「チャコの海岸物語」を歌っていた。映画では12月に映画『E.T.』が日本で公開した。『E.T.』はのちに当時の日本と世界で史上最大の興行収入を記録した。 テレビでは10月から日本テレビで『久米宏TVスクランブル』が、同じ10月からフジテレビで『笑っていいとも!』が放映開始した。テレビコマーシャルでは「♪マルコ〜メみそ」が流れた。本では黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』がベストセラーになった年だった。
「その後数年のあいだにCDプレーヤーとCDソフトは急速に普及し、街の『レコード屋さん』もすっかり『CDショップ』に様変わりした」
1982年にソニーから世界初の家庭用CDプレーヤーが出て、わずか5年で、CDとアナログレコードとのシェアが入れ替わった。
ちなみに音楽メディアでは、1987年のカセットテープのシェアが約53%、CDが28%のシェアだったのが、、2000年ではカセットテープのシェアが約4%、CDが92%のシェアになっている。
現在では、CDプレーヤーからDVDプレーヤー、BDプレーヤー、iPodなどに変わっているが、ソニーはデジタルオーディオ業界の先駆者だった。今後もソニーは音楽・映像業界のリーディングカンパニーであり続けるに違いない。