じじぃの「人の生きざま_168_姜・尚中」

姜尚中 - あのひと検索 SPYSEE
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基地と戦争〜姜尚中が見た沖縄(1) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ExYL66nkKjk
NHKアンコール 「世界 わが心の旅 ----- ドイツ・故郷と異郷のはざまで 姜尚中 2000年 doranyankoの茶室
姜尚中(カン・サンジュン、1950/8/12 熊本市生まれ)。
在日韓国人2世として、初の東大教授に就任した姜尚中さん。
1979〜81年に、旧・西ドイツ/バイエルン州に在るエアランゲン大学。
http://blog.goo.ne.jp/tsn_take/e/bf84e6fc68b6ceccf4fd4ce5012ad0cd
姜尚中 ウィキペディアWikipedia)より
姜 尚中(カン サンジュン。英語: Kang Sang-jung。1950年(昭和25年)8月12日 - )は、日本の政治学者。東京大学大学院情報学環教授、東京大学現代韓国研究センターセンター長。熊本県熊本市出身。国籍は大韓民国。日本名は永野鉄男。国際基督教大学準教授、東京大学社会情報研究所教授などを歴任した。
【来歴】
1950年(昭和25年)に、熊本市で在日韓国・朝鮮人二世として生まれる。父は、1916年(大正5年)に朝鮮南部の慶尚南道昌原郡南山里(現・昌原市義昌区)に生まれ、1931年(昭和6年)に仕事を求めて自らの意思で来日した。母は1923年(大正12年)に朝鮮で生まれ、1941年(昭和16年)に釜山近くの鎮海(現・昌原市鎮海区)から許嫁の父を訪ねるべく関釜連絡船で来日した。両親とも「強制連行」で来日した者ではない。
熊本県立済々黌高等学校を経て、1974年(昭和49年)早稲田大学政治経済学部卒業、1979年(昭和54年)早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。西ドイツ・エアランゲン大学留学(1979年(昭和54年) - 1981年(昭和56年))後、明治学院大学講師、国際基督教大学準教授を経て、1998年(平成10年)東京大学社会情報研究所助教授、2004年(平成16年)東京大学教授(所属:社会情報研究所 情報行動部門)。現在、東京大学情報学環教授。専攻は政治学・政治思想史。研究分野はアジア地域主義論・日本の帝国主義を対象としたポストコロニアル理論。
2012年(平成24年)10月3日に発売された週刊誌において、2012年(平成24年)度一杯で東大を定年の3年前に辞め、聖学院大学へ次期学長含みで転出することが決定したと報じられた。
近年は『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)をはじめ、多くの討論番組やトーク番組に頻繁に出演し、独特の語り口調で発言・主張をしている。『朝まで…』における論敵は親米保守村田晃嗣であり、主に外交問題で対立している。

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2010年7月3日、テレビ東京田勢康弘週刊ニュース新書』「姜尚中vs田勢康弘“時代”を読み解く」より
田勢 サッカーの熱狂を見ていて、私も興奮しましたが、日本の外交のまだるっこさにはあきれてしまいます。今日は姜さんをお迎えしました。姜さんは『母−オモニ』を出版されました。私も満州で生まれ、釜山から日本に引き揚げてきました。釜山から日本にくるとき、釜山の人に非常によくしてもらったことを聞いています。私は菅さんの2つ上の世代ですが、菅さんが総理大臣になったことで一つの時代が終わったなと感じています。菅さんは70年安保闘争の時に学生運動をしていた人なんです。良し悪しは別にして、菅さんが総理大臣になったことは象徴的なことです。
  菅さんは学生運動していた初めての総理大臣なんですね。
田勢 「日米安保を確たるものにする」と菅さんが言っているが、同じ時代を生きてきたので分かるんです。
大江 今の時代のキーワードを2人に挙げてもらいました。
田勢 「弁解」の時代。
  「鬱(うつ)」の時代。これは五木さんとの対談で感じたことです。行動が起きにくい、静の時代。次の時代のために力を貯めていく時代です。
田勢 今の人は目的意識が無いのではないか。
  ニューヨークや新興国に出かけるより、日本の温泉に入っていたほうがいいと考えている。
大江 「幸福度指数ランキング」では韓国より低い。
田勢 日本の国際競争力は1990年、世界で1位だったが、2010年では27位まで低下している。
  『坂の上の雲』の時代ではなくなったのです。今や、ほとんど達成されてしまったという思いがある。
田勢 日本の未来が見えてこない。
  一方で、"クールジャパン"とか、世界のあこがれになっている。
社長は外国人、会議は英語というのが増えています。楽天三木谷社長は「日本企業であることをやめ、世界企業になる」と言いました。社内の会議は英語でいうのが増えています。楽天、日産、ユニクロ、・・・。日産自動車カルロス・ゴーン社長の1年の報酬は8億9000万円、ソニーのストリンガー会長の1年の報酬が8億1650万円です。日産自動車では優秀な人材を確保するためには報酬を高くするのは当然という考えかたです。今、日本には中国人が多く観光にきています。消費の中心は日本ではなく中国人になっています。
田勢 処方箋は。
  「琉球王国たれ」。日本の沖縄になる前は、日本と中国を天秤にかけ、したたかにやっていました。アジアからも、ヨーロッパからも日本は面白いということを聞く。
田勢 「『東京』よ、さようなら」。ハブ空港を作ろうと思ってもできない。東京だけが一人勝ちというのを止める。
  私の若い時代は東京にあこがれがあった。今だに東京という神話が生きている。ドイツの場合、フランクフルト、ミュンヘン、ベルリン、と都市が分散している。分散化したほうがいい。
田勢 確かにグローバル化した世界で英語ができないのは競争に負けるかもしれない。
  しかし、日本語がちゃんとできないと、実は英語もできない。
田勢 語るべきものを持っていないといけない。民主党を見ていても危機感を感じる。日本が教えた新幹線で、中国に負けるかもしれない。
  自分たちは常に教える側にいるという考えを変えないといけない。農業を含めた第一次産業をこれからの日本の有望な新しいマーケットにするという道が残されている。

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『在日』 姜尚中/著 講談社 2004年発行
指紋押捺(おうなつ)拒否が生んだ出会い (一部抜粋しています)
84年6月、指紋押捺を拒否した米人女性に対してと横浜地裁外国人登録法違反で罰金1万円の有罪判決を言い渡したが、それに続いて数ヵ月後には東京地裁在日韓国人にも有罪判決が下り、指紋押捺拒否をめぐる波紋が広がっていくことになる。
そしてあくる年の2月、川崎市は、外国人登録法による指紋押捺拒否につき告発しない旨、明らかにしたが、その数ヵ月後、神奈川県警は在日韓国人李相鋪氏を市の告発なしに逮捕した。押捺拒否者に対する「見せしめ」のような逮捕劇だった。日本になぜ韓国・朝鮮人なんかがいるんだ。日本の法律に従わないのならば、日本から出ていって、自分の国に帰ればいいじゃないか。「郷に入っては郷に従え」。あらましこんな反応が大方の世論の風向きだったのではないかと思う。
そのようなとげとげしい世論の空気にわたしは生理的な反発すら感じていた。何やら「在日」を「第3国人」と蔑称していた時代の記憶がしぶとく生き続けているように感じたのだ。一世たちの不遇な境遇のことを思い浮かべ、わたしは指紋押捺拒否というささやかな抵抗に傾きつつあった。
もっとも指紋押捺拒否義務など、どうでもいいじゃないか。問題はそんなところにあるんじゃない。かって「日本人」だった在日韓国・朝鮮人を、敗戦後、今度は自分たちの都合で勝手に「外国人」とみなし、出入国管理と外国人登録法など、さまざまな法律や行政処分の網の目でがんじがらめにしていることが問題なはずだ。指紋押捺など、ほんのわずかな苦痛を強いる制度に過ぎない。こうした考えが頭をよぎることもあった。
しかし、その「人差し指の自由」すらままにならないのだ。「人差し指」にこめた思いを行動で示すべきだ。わたしは思い直していた。そしてその思いを強くしたのは母の一言である。「やっぱりいかんばい、こがん制度は。なんで泥棒のごつ扱われるとかね。オモニも押さんけんね」ときっぱりと断言したのだ。わたしは少々驚いたが、同時に勇気づけられた。
こうしてわたしは埼玉県で指紋押捺拒否の「第1号」となってしまったのである。その頃、偶然知り合いになった地域の市民運動家Kさんなどが、知り合いの地元の記者などに呼びかけて、小さな記者会見のような場を用意していた。わたしはその場で自分の思いのたけの一端を述べることになった。
あくる日、なんと地元紙の一面トップに写真入りでわたしのことが記事になっていたのである。驚きと同時に、内心、これは困ったと不安になった。非常勤講師で定職のない我が身にやっかいなお荷持を背負い込んでしまったのではないか。後悔の念が頭をよぎる。
      ・
そんな中、とくにわたしを精神的に支えてくれたのが、上尾合同教会の土門一雄牧師だった。先生――そのときからわたしはそう呼んでいた――は、地域市民運動の先頭に立つような活動的な牧師だった。雄弁な話ぶりと溢れるような情熱、そして歴史や社会への深い洞察と、それを支える強い信仰。年齢よりも成熟しているように見える土門先生には、いささかカリスマ的な雰囲気が漂っていた。
その土門先生の自宅でたびたび、わたしと支援者者は集うことになった。埼玉県の「在日」の歴史やら外国人登録法の沿革や現状、市役所の対応や現場の動きなど、いろいろなことが話し合われ、時には歓談に夢中になって夜遅くまで話し込むこともまれではなかった。
当時の土門先生は、心臓を患い、顔色も土色で生彩がなかった。市役所の窓口までわたしを「エスコート」されるときなど、先生の足取りが重く、逆にわたしが先生を「エスコート」しなければと思ったほどだ。しかし、やがて病気が恢復に向かうにつれて、先生に生気がもどり、魂の「牧会(ぼっかい)」であると同時に地域市民のリーダーでもある先生の溌剌とした姿がよみがえってくることになる。
押捺拒否から1年、わたしは死の告発なしに逮捕された李相鋪氏と同じ苦境にあえて身を置くのか、それともそれを回避するのか、そのディレンマに立たされることになった。
逮捕を覚悟すれば、わたしの抵抗は、より大きな反響を呼び、支援者の輪も広がって、「拒否運動」にも弾みがつくに違いない。また個人的にもちょっとした「ヒーロー」扱いをうけるはずだ。何よりも、そうすることで、わたしの抵抗は首尾一貫することになるのだ。
だが、生活のメドすら立たない「オーバードクター」の身で、果たしてそんな「リスク」を抱え込めるだろうか。
いや、そもそもどうしてそんな苦境をわたしが引き受けなければならないのだ。一世はもちろん、二世も、これまでさまざまなしわ寄せをこうむってきたではないか。「在日」が「犠牲」を甘受することで持続する「運動」なんて、いったい何になるのだ。わたしは心の中で煩悶していた。
わたしの中の迷いに気づいたのか、支援者の中に動揺が広がろうとしているようだった、選択の日が迫っていたのだ。わたしの「決断」を告げるときがきた。わたしの心は決まっていた。押捺だ。心残りではあるが、そうせざるをえないと決めていた。
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それからすると、突っ張って逮捕されることは、「前衛」気取りのヒロイックな犠牲的行為のように思えて仕方なかった。
重たい沈黙が続いた。そのときだ、土門先生が口を開いたのは。「わたしは姜さんがどんな決定をしても、それを支持したいですね。もともとわたしたちの運動は、市民の運動です。市民の運動はね、国家権力と対峙するとき、敗北するに決まっているんです。でもそれをただ敗北とだけ受け止める必要はないと思いますよ。負けて、負けて、負け続けて、しかしいつの日にか勝てないけれど、負けてもいない、そんなときがくるはずですよ。だから姜さん、今あなたが犠牲をこうむる必要はないんです。だれもそれを姜さんに求めることはできないし、求めてはダメなんです。姜さんがこんなふうに悩まなければならない状態を作っているわたしたち日本人にこそ、問題があるのですから」。
土門先生の言葉は、わたしの心に深く染み入った。わたしは癒され、慰められているような心地だった、先生への信頼が深まり、わたしは先生にさまざまな相談をするようになっていった。
やがて日曜教会にも顔を出すようになり、「おじさん」と父を亡くした後、わたしは先生の勧めで洗礼を受けることにしたのだ。深い悲しみと喪失感、そして将来が閉ざされているような閉塞感の中で、わたしは悶々とし、心の平衡を失いかけていた。信仰への目覚めというより、土門先生への尊敬の思いが、わたしを洗礼に導いたと言える。「姜さん、すべてのわざには時があるんですよ」。先生は、旧約「伝道の書」(第3章第1節以下)の1節を諭すように話してくださった、「時がある」、そうだ「時がある」のだ。
わたしは、焦りと悲しみの中で自分を見失って、今の苦境がずっと未来永劫に続きそうな錯覚に陥っていたのだ。大切なことは、必ず時があるに違いないのだから、そのために準備をし、心の平穏を取り戻すことなのだ、そう思うと、凍てついた心が少しずつ氷解していくようだった。
『天の下のすべてのことには季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時あり、死ぬるに時あり、……泣くに時あり、笑うに時あり、悲しむに時あり、踊るに時あり、……」。わたしは何度も何度も繰り返し声を出して読も返した。言葉が体内にもぐりこみ、その内奥から生きる力を発散しているような感触を味わったのである。
やがて、土門先生がプリンストン大学神学部に留学中に知り合ったという国際基督教大学のC氏の尽力もあって、わたしは同大学に助教授として迎えられたのである。偶然にもC氏は、大学院のときの先輩だったのだ。不思議な縁というものである。「時がある」ということなのかもしれない。
その土門先生も、昨年の初春、雪まじりの底冷えする日、永遠の眠りにつかれた。享年70歳であった。奥さんの恵子先生に「よかったね」と一言残されて。「よかったね」――その一言に先生の生涯が凝縮されているように思える。ずっとご無沙汰していたわたしは、ただ後悔の念にかられながら、葬儀の場にたたずんでいた。「すべてのわざには時がある」――わたしは、ふたり目の恩師を亡くしたのだ。
「神はわれらの避け所である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇46篇1節)
が先生への贈る言葉だった。
それ以後、再びわたしは先生からいただいた聖書を傍らに置くようになった。

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