じじぃの「人の死にざま_567_カラヤン」

ヘルベルト・フォン・カラヤン - あのひと検索 SPYSEE
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HERBERT VON KARAJAN 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=shYMoJ74Okg
ベートーヴェン交響曲9番「合唱」第4楽章2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=aAy4Hk40-Ao&feature=fvwrel
ヘルベルト・フォン・カラヤン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヘルベルト・フォン・カラヤンオーストリアの指揮者。1955年よりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の芸術監督の地位にもあったことなどから日本では「楽壇の帝王」と称されることもあった。20世紀後半のクラシック界のみならず、広く知られたマエストロ(巨匠)の一人である。
【人物・来歴】
1908年にオーストリア・ハンガリー帝国(現在のオーストリア共和国ザルツブルク州のザルツブルクで貴族の子として生まれた。
ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。
1955年にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督の地位に登りつめ、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。
1972年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団団員の養成を目的としたオーケストラ・アカデミー、いわゆるカラヤン・アカデミーを創設した。1982年、自身の映像制作会社テレモンディアルをモンテカルロに設立。ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化にも着手した。
カラヤンは指揮者の職業病ともいえる、脊椎の持病にも悩まされ続け、生涯に3度の手術をした。1978年の脳梗塞(『家庭交響曲』のリハーサル中、落とした指揮棒を取ろうとして指揮台から落ちたのが発作の原因であった)等が追い撃ちをかけた。晩年には、歩行も厳しいほど体のコントロールを失うことにもなった。その頃のカラヤンは指揮台の柵につけられた、サドル状の特製の椅子に座って指揮し、長年目をつぶって指揮していたオーケストラのみの曲でも1983年ごろからは目を開いて指揮することが多くなった。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
ヘルベルト・フォン・カラヤン (1908-1989) 81歳で死亡 【執筆者】高橋哲也 (一部抜粋しています)
1887年7月16日、81歳のヘルベルト・フォン・カラヤンザルツブルク郊外の自宅で、ベッドに横たわっていた。
「医者は、この私が心臓病だというんだよ。ペストだというなら分かるがね」
3日前にはそんな冗談を飛ばして見舞いに来た友人を安心させた。
間近に迫ったザルツブルク音楽祭では、今年もまた主役を演じるつもりだったし、何より、これから訪ねてくる日本人の紳士と、この数年にわたり心血を注いだ事業について相談しなければならなかった。
客が着いたのは昼だった。執事が2階の寝室に案内した。
古い農家を改造した自宅は質素だった。寝室は20畳ほどもある広さだが、使いこまれたクロゼットのほかに目立った調度はない。ベッドに半身を起こし、彼は遠来の客を上機嫌で招き入れた。
スーツ姿の日本人客はソニー大賀典雄社長(現・相談役)だった。
「何で来たかね?」
いつものあいさつだ。自家用ジェット機を操縦してきたのか、それとも旅客機か・・・・。2人は音楽のほかに、ジェット機操縦という共通の趣味を持っていた。
カラヤンは本題に入った。
「実は、演奏をLD(レーザー・ディスク)で出したいんだがどうだろうか」
LDはデジタルで映像と音声を同時に収録再生する最新愚術だ。CD(コンパクト・ディスク)の澄んだ音に、解像度の高い映像が組み合わされている。まだ普及していないが、ビデオに代わるメディアとして期待されていた。大賀さんが自分の考えを語る。カラヤンは熱心に耳を傾けた。
話が一段落して、カラヤンはベッドサイドのコップに手をのばした。水を飲み干す。その直後、突然後ろに倒れた。
驚いた大賀さんのしらせで執事が駈けつけたが、なす術(すべ)はない。ヘリコプターで医師が呼ばれた。しかし、息を吹き返すことななかった。
大賀さんのショックは大きかった。
「そりゃそうですよ。なにしろ、この目の前で倒れたんですから」
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カラヤンの音楽の美しさは、その天性の才能のたまものだった。正確なテンポ。何十もの楽器の音を1つの音の固まりに仕上げる技術。「流線型の美」と評する者もいた。
レパートリーの広さも強みだった。ドイツ・グラモフォン社で長く音楽プロデューサーを務めたギュンター・ブレストさんは、オペラの録音に入れ揚げているカラヤンに「売れるものを録音してほしい」と泣きついたことがある。
カラヤンはいやな顔もせず、売れ筋のレコード制作を引き受けた。人気の高い交響曲などは、同じ曲で5枚も6枚も新盤を出した。
その彼が、愛したレコードを「古くさいガス灯」と切り捨てる。CDの登場だった。
78年秋、来日中のカラヤンソニー盛田昭夫会長の自宅に招かれた。そこでリハーサルの録音を聞かされる。ソニーが開発したデジタル録音のテープだった。
練習中の録音をきらうカラヤンは顔をこわばらせた。しかし次の瞬間、目を輝かせて立ち上がった。
「素晴らしい。これは全く新しい音だ。こんなクリアな音は聞いたことがない」
カラヤンは以来「デジタル派」になる。転向の仕掛け人は、当時ソニーのオーディオ事業本部長、中島平太郎さんだった。中島さんは後で手紙を書く。
「リハーサルを録音したことでご気分を害されたようですが、技術の流れはもう変えられません」
本人から返事が届いた。
「今度はテープではなく、ディスク上のものにデジタル録音してもらいたい。ザルツブルクで私が宣伝します」
約束は、CDの開発発表会で果される。CDの登場でドイツ・グラモフォンは83年から86年にかけ、創立以来の売り上げを記録した。
日本でも、CDは87年から急激に売り上げを伸ばす。CDプレーヤーは据え置きタイプだけで年間100万台以上が売れた。翌88年にはCDがレコードの販売を上回る。大賀さんたちが考えた音楽のデジタル革命は大成功を収めた。
カラヤンが最後の夢をかけたLDは期待したほど成功しなかったが、レコード、CDなど500枚ものカラヤンの音楽的遺産は、いまも世界のファンを魅了している。
録音された曲の中からアダージョ部分ばかり集めて95年に発売されたCD『アダージョカラヤン』は世界で500万枚が売れ、クラシックとしては異例の記録をつくった。
関係者は、「彼の録音がどれも高いレベルだったこらこそできたことです」という。
音楽の民主化。彼の哲学は正しかったのかもしれない。

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