じじぃの「科学・芸術_268_ソニー・ウォークマン」

Sony Walkman CM 1987 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SlhIQYd-qAg&feature=fvwrel

Take the Walkman 30th Birthday Quiz 7/01/09 GIZMODO
How much do you know about the most celebrated personal stereo of all time, one that is today turning the big Three Oh? A lot? OK, hell, let's see what you got:http://gizmodo.com/5305820/take-the-walkman-30th-birthday-quiz/
少し前のまる見えで、アメリカのクイズ番組でポストイットウォークマン、どちら 2012/3/13 Yahoo!知恵袋
回答
「マック、ポストイットウォークマンの内どれが先に発売されたか」という問題に対して回答者夫婦はポストイットが先と予想しましたが、答えはウォークマンということで夫婦は賞金を獲得することができませんでした。
しかし番組終了後にウォークマンの発売は1979年、ポストイットはテスト販売が1977年に行われており、正確にはポストイットの方が先に発売されているという電話等が殺到したようです。(全国的にはポストイットは1980年発売であったが、問題には「全国的に」という記載もなかったため)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1083347185
『日本の企業家 8 井深 大 人間の幸福を求めた創造と挑戦』 一條和生/著 PHP研究所 2017年発行
井深がリードしたソニーイノベーション より
1953(昭和28)年、東京通信工業はウエスタン・エレクトロニック社と契約を結んだ。設立からまだ6年。テープレコーダーの成功で多少、名を知られるようになったものの、東京通信工業はまだ小さな町工場の域を出ていなかった。資金に余裕はなかったが、ウエスタン・エレクトロニック社に特許料を支払ってトランジスタを製造する許可を得た。製造ノウハウも、何も知らなかった。そのために自力で製造装置を開発しなければならなかった。井深は盛田の義理の弟でもあった岩間和夫と再び渡米し、ウエスタン・エレクトロニック社の工場を見学した。彼らがラジオへの応用を考えていると伝えると、ウエスタン・エレクトロニック社は、ラジオだけはやめておけ、ラジオに使えるような高周波のトランプは歩留まりが悪く、商売にならないと忠告した。アメリカのように低周波トランジスタを使った補聴器ビジネスではよい商売にならないと考えた井深は、「どうしてもラジオを物にしてやるぞ」という強い決心を堅くして日本に帰国した。
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トリニトロン・カラーテレビ「KV-1310」は井深が約束した通り、1968(昭和43)年10月に発売された。値段は11万8000円。初期出荷は5000台だったが、1年で17万台を販売する大ヒットとなった。その2年半後の1971年6月、83歳の井深は社長の座を盛田にバトンタッチし、みずからは代表取締役会長に就任した。さらに1976年1月には取締役名誉会長に就任し、徐々にソニーの経営の第一線からは退いていった。それは、トリニトロン・カラーテレビの開発が井深にとってソニーにおけるイノベーションへの挑戦の集大成であったことを示唆している。自分の大きな使命は終わった。次の世代にバトンタッチをしよう。そんな思いを井深は持っていたのかもしれない。
世界のテレビメーカーの中で、ソニーが独自方式のカラーテレビをつくったことは、彼の生涯の誇りだった。
ウォークマン
1970年代半ば以降、井深は徐々に経営の最前線からは退いていったが、ソニーに対する影響力は大きかった。その影響はファウンダーとしての精神的支柱というものにとどまらず、製品開発にも影響を及ぼした、その象徴がウォークマンの開発だった。
1978年、取締役名誉会長に就任していた井深が携帯用ステレオ・テープレコーダーと標準サイズのヘッドフォンを抱えて盛田の部屋を訪ねた。他人の邪魔をせずに音楽を聴きたいのだけど、1日中、ステレオの前に座っているわけにもいかない、だからこうして携帯用ステレオ・テープレコーダーとヘッドフォンを持ち歩いているが、重くてかなわない、ということだった。このアイデアに盛田は誘発された。自分の子供の様子をみて、若者が音楽なしには生活できないことを知っていた盛田は、早速、井深の願いを叶えるべく行動を起こした。彼はエンジニアを呼んで、ソニーのモノラルタイプの高性能の小型カセット・テープレコーダー「プレスマン」から録音回路とスピーカーを抜き取り、代わりにステレオのアンプを入れるよう頼んだ。しかしこのアイデアは賛同を得られなかった。録音機能のないテープレコーダーなど買う人はいないというものだった。
しかし盛田は諦めなかった。ヘッドフォンとともに届けられた試作機を聴いて、盛田は商品化にますます強い情熱を燃やした。彼は売れそうもないと熱意をみせない販売部門に対して、企画の責任はすべて自分が持つからと商品化にゴーサインを出した。井深の思いに発したウォークマンの実現は盛田の執念の賜物だった。
絶対に成功する。商品化しても絶対に公開することはないという盛田の確信は正しかった。ウォークマンは、成功を確信していた盛田の想定をはるかに超えるような大成功をもたらしたのである。
ウォークマンの開発は、こうしたものを実現したい、こういうことをしたいという井深の強い目的意識が、当時のソニーイノベーションの原動力だったことを示す好例でもある。テープレコーダーも、トランジスタも、トリニトロン・カラーテレビもそうだった。井深の望み、期待になんとか応えたいと、ソニーに働く人々が動き出した。その夢やアイデアなどを、まわりの人が実現してあげたくなるような、少年のような純粋な好奇心に人々が心を打たれた。世界的大ヒットとなったウォークマンも、いつでも音楽を簡単に、気軽に聴きたいという井深のピュアな思いに原点があったのである。盛田も、当時どんなに市場調査をしても、ウォークマンのアイデアは出てこなかっただろうと振り返っている。