じじぃの「人の死にざま_284_本多・光」

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本多光太郎(ほんだこうたろう)−Steel Father 鉄鋼の父−
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本多光太郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
本多光太郎は物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者
【生涯】
・1870年、愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)生まれ。
・1894年東京帝国大学理科大学物理学科入学。
・ドイツおよびイギリス留学。
・1919年東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長。
・1934年新KS鋼を発明。
KS鋼、新KS鋼は何れもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼とみなされていたので、鋼という名称になっている。
研究組織の運営にも手腕を発揮し、東北大学金属材料研究所の設立に尽力し、同研究所を材料科学の世界有数の拠点に拡充発展させる礎を築いた。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
本多光太郎 『本多光太郎 マテリアルサイエンスの先駆者』アグネ技術センター 今が大切、と励んだモーレツ科学者の大活躍 【執筆者】山本貴光 (一部抜粋しています)
「つとめてやむな」を座右の銘にしていた本多光太郎について、中谷宇吉郎が「寺田先生と本多先生」という一文にその働きぶりを書き留めている。
寺田寅彦には、大学を出て間もない頃、本多と共に実験に勤しんだ時期がある。協働作業は楽しいのだが、本多があまりにもモーレツに勉強するのにはさしもの寺田も困った。なにしろ本多は毎晩24時過ぎまで粘るというのだ。先輩に付き合って中谷も帰れなかったというおまけつき。
本多は、長岡半太郎の下で磁歪という現象の研究から出発し、ドイツ留学での物理冶金学研究を経て、東北帝国大学に教授として着任という経歴を辿る。KS鋼なる永久磁石鋼を発明し、金属材料研究所を設立して、材料科学(マテリアル・サイエンス)の先駆者として、八面六臂の活躍を見せた。この間、なんと400編に近い論文を生産し、特許権の管理運営により、今で言う「産学連携」を実地していたというから、座右の銘を地で行ったわけである。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
本多光太郎 (1870-1954) 84歳で死亡。
昭和25年、80歳で糟糠(そうこう)の妻加禰子を脳溢血で失った本多は、墓を立てることを考えた。一つの暮石の正面に「本多光太郎之墓」と彫らせ、横面に「本多加禰子」と書き、裏面には「鉄鋼の世界的権威者」と彫らせた。その通りにはちがいないが、このころから彼自身の脳にも異変が起っていたことを思わせる。
果たせるかな、その翌年、妻の一周忌の翌日、彼もまた脳溢血の発作を起し、入院し、やがて退院したが、それ以来脳軟化症がひどくなって、だんだん何もわからなくなっていった。
「晩年の父を思う時には私の胸は痛さで一ぱいです」と娘の静子は書いている。「強い烈しい立派な父というものが、なんだか、うすうすボヤけて行く姿を見るということは、私の心には全くたまらないことでした」
そういう状態でなお3年経過し、昭和29年1月27日気管支炎を起し、2月12日午前7時死亡した。

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