じじぃの「人の死にざま_265_円谷・英」

円谷英二 - あのひと検索 SPYSEE
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ゴジラVS自衛隊 動画 YouTube
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『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』 動画 YouTube
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円谷英二 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
円谷英二は、福島県須賀川市生まれの特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家。1949年の映画『幽靈列車』までは、圓谷英二の表記名で映画にクレジットされた。
昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残し特撮の神様と呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。
一家は全員カトリック教徒で、墓所東京都府中市カトリック府中墓地にある。
【来歴】
1901年(明治34年)、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)で誕生する。生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。
公職追放東宝復帰】
1954年(昭和29年)、53歳。11月3日、満を持して製作された日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒット。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞する。
1955年(昭和30年)、54歳。ゴジラの逆襲』で、晴れて世界に例を見ない「特技監督」の名称を与えられる。
その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画のすべてにおいて特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。
1956年(昭和31年)、55歳。日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣ラドン』を担当する。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降これが定番フィルムとなる。
また、東宝内とは別に、自宅敷地の「円谷特殊技術研究所」を再開。東宝でまかないきれない合成処理や、人形アニメ撮影などをこちらで行う。研究員のギャラは円谷の個人負担である。
1957年(昭和32年)、56歳。東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れ再編成する。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。
1959年(昭和34年)、58歳。6200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰される。
【テレビ界へ】
1963年(昭和38年)、62歳。東宝との専属契約解除。
同年、東宝の出資を受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立、社長に就任。同プロの初仕事として、日活・石原プロ提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作。また、東宝撮影所にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンター「シリーズ1900」が設置される。
1966年(昭和41年)、65歳。円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を製作、この『ウルトラマン』は日本全国に一大『怪獣ブーム』を巻き起こし、「特撮の神様」とまで呼ばれるようになった。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
1月25日−円谷英二 (特撮監督)
彼もまた"世界のツブラヤ"だった。1960年代に少年時代をおくった人にとって彼が特撮した怪獣映画やウルトラマンシリーズは強烈なインパクトを残している。
飛行機少年から映画界へ。衣笠貞之助の助監督。そして林長二郎のデビュー主演作『稚児の剣法』(1927)でカメラマンとしてデビュー。
しかし、円谷英二の名を一躍、有名にしたのが本多猪四郎の『ゴジラ』(1954)での特撮だった。これで日本映画技術賞を受賞。翌年、『ゴジラの逆襲』で初めて特技監督としてクレジットされる。
子供だましなどと円谷の特撮をこきおろす人もないではないが円谷映画で育った世代というものはそれぞれ共通体験を持っているものだ。
ゴジラモスラアンギラス−−円谷が生みだした可愛くも怖ろしい怪獣たち。それらは時代を超えてファンの心の中に今なお輝きつづけているに違いない。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
円谷英二つぶらやえいじ) (1901-1970) 69歳で死亡。
昭和17年東宝映画「ハワイ・マレー沖海戦」の特撮で全日本人を瞠目(どうもく)させた円谷英二は、戦後も『ゴジラ』その他の怪獣映画、『太平洋の嵐』その他の戦争映画などの特撮で、その天才的独創的能力をいかんなく発揮した。
昭和43年暮れから円谷プロダクションを作ったが、このころから糖尿病に原因すると見られる心臓の異常を訴えはじめ、常時、心臓発作をおさえるニトログリセリンを携帯しているようになった。彼の完全主義のせいもあって、プロダクションの経営状態は思わしくなく、それがいよいよ心臓に影響を与えたようであったが、彼の仕事に対する意気と情熱は衰えの色も見せなかった。
しかし、昭和44年8月、翌年の大阪万博のパビリオン三菱未来館の映像展示の企画を引受け、そのため鳴門の渦潮を撮影にいって、船上で心臓発作を起し、入院するに至った。
そして退院後の12月、伊豆高原の浮島の別荘に妻とともに静養にいった。一生涯仕事の鬼であった彼が、ある期間妻と2人だけの世界を持ったのはそれがはじめてであったが、それでも次の映画「ニッポン・ヒコーキ野郎」の企画に頭をひねっていた。
昭和45年1月25日、彼は日記に、「意味の無い1日だった。完全静養のたいくつさを味わう。今日もヒコーキ野郎の企画書脱稿に至らず。わが無能を嘆くのみ。明日は東京に帰るので今更止むを得ず、東京に於て完成せん」と書いたが、その直後の午後10時15分、突如狭心症による心臓喘息の発作を起こして急死した。
評論家・増淵健はいう。「円谷のノー・ハウを言葉や筆で再現することは不可能である。それはあくまで彼自身のもので、円谷の肉体が消えた瞬間、消えてしまった。円谷の後継者がうけついたのは特撮のメニューやら材料表やらで、真実のノー・ハウはあきまでも一代限りのものだ」

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