じじぃの「人の死にざま_239_岸・信」

岸信介 - あのひと検索 SPYSEE
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60年安保闘争 - 1960 動画 YouTube
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文藝春秋 1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
昭和35年 「声なき声」に耳を傾けねばならぬ 岸信介 (一部抜粋しています)
昭和35年1月、岸信介首相は従来の条約を全面改定した新安全保障条約に調印する。この条約の承認をめぐり、アメリカの戦争に巻き込まれるとして社会党などが反対、自民との反岸勢力も加わって政治抗争に発展した。国民の間にも改定反対の動きが強まり戦後最大の大衆運動に拡大した、5月20日の未明、自民党主流派は新条約を強行採決し、政治的な混乱はさらに増した。「声なき声」発言は、5月28日に岸首相が記者団に所信を述べとときに飛び出した。その後、事態はさらに深刻化する。6月15日には東大生・樺美智子が警官隊とデモ隊の衝突で圧死。条約は6月19日に自然成立するが、岸内閣は責任をとって総辞職した。

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『世界に誇れる日本人』 渡部昇一/著 PHP文庫 2007年出版 (一部抜粋しています)
日本の非武装中立を許さないアメリ
安保騒動が終息に向かったとき、岸は退陣を表明し、暴漢に刺されることになる。自民党内の党規でどれだけの期間首相でありえたかはわからないが、岸がビスマルクのように20年ぐらい首相を務めたら、と残念な気がする。占領という強烈な体験から日本を立て直すのは長期政権が必要だったのではないかと思う。岸の暗殺未遂事件がなく、そのまま政権を維持して田中角栄の頃まで続いていたらずいぶんと日本の姿が違ったはずである。
ひょっとすると、統制経済体制を訂正し、すべてを自由化した可能性もある。彼の古巣だった通産省だけは、完全ではなかったにせよ、自由化の方向へ行った。だから、製造業が競争力をつけ、世界一になった。しかし、大蔵省のほうはそのまま残り、農林省や厚生省までは手が及ばなかった。この10年間を振り返ると、秀才が集まっているはずの銀行および大蔵省に、これという政策が何もなかったのは、護送船団方式というつぶれないことを前提とする社会主義政策によって、みんなが馬鹿になったからだ。こういう害を避けるのは自由化しかない。岸は洞察力があり、しかも官僚の総親分のようなところがあったから、田中角栄よりもはるかに無理なく官僚を動かすことができた。したがって、行政全体の流れを大きく変えられたと私は思う。
しかし、実力に反比例するかのように、岸は国民に人気がなかった。それはマスコミが左翼がかっていたことが大きく影響している。左翼でない言論人は公職追放令で追放され、その後釜入った連中が言論界を支配した。当時は、私も含めて「日本はいかなることがあっても負けない国だ」と育てられた人間ばかりだった。ところが、その日本が負けた。世の中に確実なものなどはないという無常感がどこかにあった。そこに共産主義革命という思想が入りこんできた。しかも、当時のソ連は毎年巨大化していくように見え、日本にも革命が来るかもしれないという雰囲気が濃くなっていた。
革命が起きた時、ソ連に睨(にら)まれるようなことを発言した前歴があると、ひどい目に遭う。確実に粛清、つまり死刑にされる。そう考えた言論人は共産党から来たスターリンの指令、32年テーゼを外れないことばかりをいおうとしていた。「あの頃にものを書いて一番怖かったのは、革命がいつ起きるかもしれないことだ。そのときにひっかからないようにしようとした」と、正直に書いた"進歩的文化人"は清水幾太郎一人ぐらいのものだが、そういう時代に恐れもなく、最初に首が飛びそうなことを岸は断固としてやった。しかも、それは同時に、アメリカの再占領から日本を守ったという一面もある。
1955年(昭和30)の保守合同の後、社会党が総選挙で第2党になったことがある。当時、アメリカの駐日大使にインタビューしたジャーナリストが、「今度の総選挙で第2党になった社会党が次の選挙で第1党になり、非武装中立を実行したらどうしますか」と質問した。すると、大使は「すぐにアメリカ軍は日本に再進駐します」と答えている。つまり、講和条約を結んで日本が独立国になったのだから、勝手に非武装中立を宣言されても仕方がないとは、アメリカは見ないといっているわけである。そして、もしそんな政権が出たら、講和条約を破棄して、直ちに再占領すると大使が明言したのである。
なぜ、日本の非武装中立アメリカが認めないのか。日本を非武装中立にしたら、ソ連が入ってくるに決まっているからだ。当時のソ連は極東軍を増やし、ポート・ツー・ポートで日本に上陸する力を持っていた。ポート・ツー・ポートというのは、海岸で戦争をしないで港に輸送船をつけて上陸する力があるということだ。日本がソ連支配下に入ることは、アメリカにしてみれば座視しがたい事態である。
そういう状況下で、岸の安保改定は日本にとって最も有利な選択だった。それを反対があってもやり遂げ、自民党を結束させて崩さなかった。大政治家だったと思う。

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