アメリカ軍が撮影した昭和31年(1956年)の東京 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=QisjlesNlA8
北方領土 (外務省HPより)
鳩山一郎 ウィキペディア(Wikipedia)より
鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階は正二位。勲等は大勲位。
クリスチャン(キリスト教徒)でなおかつフリーメイソンである。
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『昭和史 戦後篇 1945-1989』 半藤 一利 平凡社 2004年発行
「もはや戦後ではない」 (一部抜粋しています)
鳩山内閣は首相が病躯をおして第三次まで続きますが、第一次(昭和29年12月10日〜30年3月18日)は、どちらかというと吉田内閣を倒したあとの、選挙をする「選挙管理内閣」といった性格の強いものでした。常道に即して総選挙は昭和30年(1955)2月に行われ、そこで鳩山さんが公約として押し出した憲法改正・再軍備、そして対共産圏外交でした。今までのようにアメリカの言う通りに対共産圏とは外交しないというのではなく、われわれは独立国家なのだから、日本の自主的な外交政策として共産圏ともつきあおうというんですね。
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翌31年、スターリン批判の後、4月に河野一郎農相がソ連を訪れます。日ソ間は講和会議をしていませんし、いわば戦争状態のところへ乗り込んでいったわけですね。農林大臣所轄の漁業は、カムチャッカ半島の北洋漁業など日ソ間で常に揉めてきました。そこでとりあえず揉めている問題を解決しようと訪問して日ソ漁業条約を調印(31年10月)したのですから、まずはトントン拍子でした。
ソ連側も、自分たちが開かれた国であることを世界的に見せたいものですから、どんどん攻勢をかけてきます。次は松本俊一外務次官が特使となってソ連に行き、さらに交渉が進められます。そしてついに7月には重光葵外相がモスクワに出かけていき、外相同士の正式交渉に入りました。
懸案は、現在も続く領土問題です。平和条約は、これをきちんとするためのものでした。当初、ソ連はハボマイ、シコタンのみの返還を提案してきたのですが、日本側はそれでは困る、クナシリ、エトロフを含めて4島そっくり返還してほしいと主張し、すったもんだがあり、いったんは暗礁に乗り上げます。しかし、いずれ日ソ間で平和条約をきちんと結ぶ際にはハボマイ、シコタンをお返しするということでなんとか国交回復を図れないか、というソ連の提案を日本は信じることにして、日ソ国交回復の共同宣言に合意したのです。これを受けて、鳩山さんは河野一郎と自分との2人を全権とする代表団を自らつくり、車いすの状態をおしてソ連に乗り込んでいったのです。
当時の新聞各紙も、また国民も「鳩山さん頑張れ」といった全面的応援の調子でしたが、肝心の与党はそれまでの行状からソ連を信用していないのか、「意味がないんじゃないか」てな感じで実に冷淡なんです。かたや一所懸命だったのは社会党です。鳩山さんが出発する時、社会党の浅沼稲次郎書記長は羽田まで見送りにきて、10月8日付朝日新聞の言葉を借りれば、「情熱をこめて」激励したほどでした。
そしてその結果は、たぶんうまくいかないんじゃないか、という予想もあったのですが、これがうまくいったんですね。残念ながら、平和条約の終結までは無理でしたが、日ソ国交回復だけは調印に漕ぎ着けました。いうまでもなく、平和条約はいまだに結ばれていません。ですからこの時の共同宣言に基づいて平和条約を結ぶ際にハボマイ、シコタンを返してくれるという約束も当然実現していません。一度奪ったものは返さない、それがソ連という国だといわれていましたが、ロシアに変った現在も、とにかく4島一括返還はおろか2島返還も絶望的という状況です。依然として現在も領土問題は揉め続けているのです
それはともかく、鳩山さんは自主的外交を打ち出し、平和条約は結んでいませんから完全ではないにしても、少なくとも日ソ間の戦争状態を終わらせて国交を回復するという大きな仕事をしたわけです。
その結果、日本は独自の力を世界で認められたと言いますか、2ヵ月後の31年12月、晴れて国際連合に加盟することができました。これで日本は戦争犯罪国から脱し、完全な国際復帰を遂げたと言っていいんじゃないでしょうか。