じじぃの「人の死にざま_1411_ダレス国務長官」

4a 1951 日米安全保障条約を結ぶ 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=H9MKfka86xs
KOREA WAR 朝鮮戦争1950〜1953 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=YWcSLS-nFDU
ジョン・フォスター・ダレス ウィキペディアWikipedia)より
ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles, 1888年2月25日 - 1959年5月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。日本国との平和条約が締結された1951年9月8日、その同日に調印された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約の“生みの親”とされる。1953年から1959年までドワイト・D・アイゼンハワー大統領の下の第52代国務長官を務めた。
反共主義の積極的なスタンスを主張した、冷戦時代の政治家であった。インドシナでベトミンと戦うフランスの支援を主張し、1954年のジュネーブ会議では握手を求める周恩来を拒絶した。講和発効以降、国際社会に復帰したばかりの日本(特に保守陣営)にとっては強い反共主義者である“ダレスの親父さん”の意向は無視できないものがあった。
1956年年8月19日にダレスは、日本の重光葵外相とロンドン会談を行い、重光に対して北方領土択捉島国後島の領有権をソ連に対し主張するよう強く要求し、2島返還での妥結をするならば、沖縄の返還は無いと指摘して、日本側の対ソ和平工作に圧力を加え、10月の日ソ共同宣言で北方領土は返還されなかった。
1959年5月24日にワシントンD.C.で死去し、アーリントン国立墓地に埋葬された。

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『昭和史 戦後篇 1945-1989』 半藤 一利 平凡社 2004年発行
新しい独立国日本への船出 (一部抜粋しています)
朝鮮戦争がはじまる直前の5月18日、トルーマンはわざわざ野党の共和党から大物ジョン・フォスター・ダレスを引っ張ってきて極東問題担当の国務省顧問に任命し、かつ特使として日本へ派遣します。彼に専任として対日講和を進めてもらえば大変うまくいくだろう。つまり、トルーマンは対日講和問題を超党派で一丸となって進めようと意図したのです。
ちなみにトルーマンは、ミズーリ州出身の田舎のとっつぁんです。戦争中、副大統領の時にルーズベルトが突然死んでそのまま大統領になったものの、実は日本のことなど何も知らず、感心もなかったのです。まして愛情など少しもなく、だから原爆を落としたと言えるところもあるような、自分のこれまでの人生においては日本などまったく無関係の人でした。
だから猶更のこと人任せというか、対日講和問題も共和党の大物に放り投げてしまえば話は済むだろうといった、まことにいい加減な部分もあったと思います。まあ、大統領ですから、なんでも好きにできるんです。今の日本の小泉首相もそれに近いところはありますが。
じゃあダレスさんがどの程度日本のことを知っていたかといえば、これも大問題ですが、ともかく彼について確かなのはコチコチの反共主義者だったことで、ソ連に有利な対日講和になることは決してありません。かつ有能な実務家で、損になることは1つもしたくない人でした。彼はアメリカを発つ時、対日講和について「ヴェルサイユの誤りを繰り返さない」ということを言っています。第一次世界大戦後のドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約では、非常に過酷な条項を連ねてドイツを締め上げ、ドイツ国民が悲鳴を上げているところにヒトラーが現れたために、皆がワーッと乗っかっていったんですね。同じことを日本でやればとんでもない事態になってしまうので、過酷な条約を押し付けることはしたくないというのです。吉田内閣も、今度アメリカから来る特使が反共産主義者で有能な実務家ということは知っていましたが、当人のこの発言を聞いて胸をなでおろしたそうです。
こうしてダレスは、昭和25年6月にはじめて日本を訪れて以来、翌26年末まで約1年半の間に実に4回来日し、吉田首相と講和条約に関する下交渉を十分行いました。まあ、3、4回あたりは、すでにでき上がっているかたちに目鼻をつけるようなものでしたが、1回目、2回目などはそれこそ大激論を交わしたという記録が残っています。
1回目の来日は6月21日で、朝鮮戦争が起こる直前でした。ダレスはまず国内を旅行し、日本人に触れ、土地を眺めながら、さてどのように吉田内閣とやり合うかと思案していたところ、25日目に朝鮮戦争がはじまり、状況が一変しました。アメリカにとって大事なのは、とにかく日本を味方に引っ張り込み、戦争を有利に進めるため日本の国土を最大に使うことを許可してもらうことです。「基地はお貸しできません」とか「憲法に違反するので困ります」とか難癖をつけられると面倒くさいわけです。今はとにかく基地の自由使用を認めさせる、講和条約を手早く結ばず少し先延ばしする、など本国の方針がこうしてダレスのもとにどんどん届くようになりました。
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しつこいダレスとの交渉を進めるうち、吉田さんはついに、「今すぐに再軍備をするのではなく、ゆっくりと、段階的に長期的に、いずれ日本も軍備をもつ方向にしていきたい」と提案せざるを得なくなります。また、ついては過去の旧日本軍とは異なり統帥権がなくなったのだから、代わる文民統制が何であるか、まったく知らない日本人に1からわからせる必要があり、そのためにも時間がかかる。そして将来は、5万人程度の国防軍をつくるプランを研究してみたい――まあ、それくらいのことを言わないとダレスも引き下がらないんですね、ワシントンに請け合ってきたのですから――と言いまして、相手も「それならまあいいだろう」と不承不承ながら納得します。吉田さんは付け加えました。
「ただし私が言ったことは、2人だけの極秘の話であって、外に漏らしてもらっては非常に困る。絶対に秘密にしておいてほしい」
ダレスさんも「わかった、わかった」と答えました。