じじぃの「人の死にざま_1410_南原・繁」

5-6【吉田 茂 日本国憲法麻生太郎の祖父「日本独立」 その光と影 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=utc-UlYX_Lc
戦後日本の原点を見つめなおす』 2007年4月16日 東京大学出版会
●戦後日本の原点をつくった南原繁
立花:南原繁というと、僕の世代は活字を通して存在は知ってるんです。実際に顔を見た経験も多分あったんだろうけれど、いつ、どの機会に、どういうふうにしてあった、という明確な記憶がないぐらいの、ぼんやりした存在です。
しかし、戦後日本の原点というものを考えるときに2人の人、つまり吉田茂南原繁というのは欠かせない存在であるわけですね。吉田茂は、政治史のなかで特筆されている人間ですから、知らない人でも知っているような気がして、その存在の大きさというのをそれなりに認識しているわけですけれども、実は戦後日本というものを考えたときに、南原繁というのは吉田茂以上に大きな役割を果たした。その意味はまさに、この本『南原繁の言葉』をたどっていくとわかります。日本がいま現在このようにあるのは、戦後に南原さんが東大の総長で、東大の演壇を通して次々発信を続けていった、その言葉の力の影響がすごく大きかったわけですね。
http://www.utp.or.jp/todai-club/2007/04/16/oaiaaeueuiaaoaaeu/
南原繁 ウィキペディアWikipedia)より
南原 繁(なんばら しげる、1889年〈明治22年〉9月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月19日)は、日本の政治学者。東京帝国大学の総長を務めた。東京大学名誉教授。
【略年譜】
明治22年9月5日、香川県大内郡南野村(現在の東かがわ市南野)に婿養子の父・三好貞吉、母・南原きくの次男として生まれる。
1946年(昭和21年)2月11日 - 紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。
3月、貴族院議員に勅撰( - 1947年5月)。単独講和を主張した当時の内閣総理大臣吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。
12月、貴族院において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張。これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。
日本国との平和条約 ウィキペディアWikipedia)より
日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国(ただし中国は除く)と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。
本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、「サンフランシスコ条約」「サンフランシスコ平和条約」「サンフランシスコ講和条約」などともいう。1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。

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『昭和史 戦後篇 1945-1989』 半藤 一利 平凡社 2004年発行
新しい独立国日本への船出 (一部抜粋しています)
昭和25年(1950)、当時、日本は片山内閣から芦田内閣を経て、吉田内閣の時代でした。吉田内閣のやらねばならない大事な仕事といえば、まず日本を貧しさから脱却させ、一本立ちできる国にする経済復興です。加えてこの時浮上してきた講和条約をどう結ぶか、同時にその裏側にある独立日本の安全保障をいかにすべきか。これが吉田内閣の2大課題となりました。
吉田さんはもともと反共、ソ連嫌いなんです。中国もあまり好きではありません。また外交官上がりですから目先が利きます。講和会議には当然、最後に戦争に加わったソ連も参加しますが、日本が思うような条件でハンコをついてくれることはまずない、といって、相手の言い分を聞かざるを得なくなったら大変だというので、共産主義の東側陣営はある程度無視し、西側陣営とだけ講和条約を結んだほうがよいという決意を相当前からしていたようなのです。つまり、すべての国との全面講和は不可能、いくらか片務的であっていいから早く講和を結んだほうがいいというわけです。
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まあ、後になっていろんなことを言う人はたくさんいて、清水幾太郎さんなどは転向したせいもあって、「あの時は、どなたの頭の中にもソ連や共産ブロックの脅威への恐怖感があった。おっかなかったので、この際ああいう発表をしたほうがいいとまとまった」とあっけかんと語るのですが、どこまで本当かわかりません。それぞれの方がいろんな思惑を含みながら名前を連ね、吉田さんは「全面講和は不可能」とはまだ言っていないのですが、ちらほら見え隠れしているその政策に反対を示したのです。
表立ってはともかく、吉田さんはカンカンに怒ったようです。「ナニクソ」、の次に何がカンにさわったのか、5月3日、自由党の秘密両院議員総会で、南原繁東大総長を指して「あいつの言っていることはまさに曲学阿世だ」と言ったのです。公の場の発言ではなかったにもかかわらず、これが毎日新聞のスクープで第一面にデカデカと出たんですね。
「南原東大総長がアメリカで全面講和を叫んだが。これは国際問題を知らない曲学阿世の徒で学者の空論にすぎない。全面講和を望むことはわれわれとしては当然であるが、現在は逐次事実上の講和を結んでゆく以外にない」
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そうこうするうち。いよいよ日本は講和条約を結ぶことになりました。朝鮮戦争のさなか、日本を早く独立国にして味方陣営に入れ込もうというアメリカの戦略を背景にして、条約は昭和26年(1951)9月8日、サンフランシスコで結ばれました。発行は翌年ですが、ともかくこの時から戦後の独立国日本がスタートします。そしてかたちとしては、親米的な、アメリカの傘下に入った、同時に重装備の軍事力を持たない「通商国家」として国際復帰することが決定づけられたのです。