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白洲次郎 - あのひと検索 SPYSEE
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【伝記】 白洲次郎マッカーサーを叱った男 Part.2 動画 YouTube
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4-4【白洲次郎マッカーサーを叱った男 〜戦後復興への挑戦〜 動画 YouTube
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白洲正子生誕100年 自分の道を歩いた「明治の女性」 動画 YouTube
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白洲次郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
白洲次郎しらすじろう、1902年2月17日-1985年11月28日)は、日本のオピニオンリーダー、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。
戦後、吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合い、従順ならざる唯一の日本人と言わしめた。妻は白洲正子
【経歴・人物】
1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。
1919年(大正8年)、旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)時代はサッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られた。神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学し西洋中世史、人類学などを学ぶ。自動車に耽溺し、ブガッティやベントレーを乗り回す。7代目ストラッフォード伯爵“ロビン”ロバート・セシル・ビングと終生の友となる。ロビンとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。
1925年(大正14年)、ケンブリッジ大学を卒業。
1929年(昭和4年)、英語新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となる。伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。
1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。
1946年(昭和21年))2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。次郎は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明される。
1950年(昭和25年)、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。
1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。
1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任する。就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。
また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク産業計画会議の委員に就任した。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。
80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じ、また、トヨタの新型車(ソアラ)のアドバイスなども行っていた。しかし1985年(昭和60年)11月に、正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。83歳没。墓所兵庫県三田市の心月院である。
夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、次郎の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。

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ドラマスペシャル「白洲次郎 2009年2月28日 NHK
英国仕込みの紳士道をプリンシプルと呼び、日本で初めてジーンズを履き、近年「日本一カッコいい男」と呼ばれ、注目を浴びている真のリベラリスト白洲次郎。戦前は近衛文麿首相のブレーン、戦後は吉田茂首相の側近となって政治の中枢にいた、昭和史の鍵を握る人物であるにも関わらず、その生涯は歴史の闇の中に埋もれています。
今回、白洲家の全面的な協力を元に、イギリスロケを含む壮大なスケールと知られざるエピソード満載で、白洲次郎の生涯を初めて映像化します。ドラマの進行役は、生涯の伴侶である白洲正子。『かくれ里』、『西行』、『両性具有の美』などを著し、能・骨董・きものなど日本伝統の美を追求した稀代の目利きと言われています。
「生き方の指針」として現代にも十分に通じる、白洲次郎の骨太なダンディズム。己の良心のみを信じ、輝かしい未来を夢見て、「敗戦」「占領」から「独立」へ激動の昭和史を生きた一人の侍のジェントルマン道を描いていきます。
http://www.nhk.or.jp/drama/dramalist/shirasujiro.html
生誕100年特別展 白洲正子「神と仏、自然への祈り」 2010年10月19日 NHK
NHKでは白洲正子の生誕100年を記念して、白洲正子が感銘を受けた仏神像や宝物、旅した社寺に関わる文化財などを、展示・公開します。
http://pid.nhk.or.jp/event/PPG0080463/index.html
『男の晩節』 小島英記/著 日本経済新聞社 2006年発行
ダンディー 白洲次郎 (一部抜粋しています)
今でそ、エッセイスト白洲正子の夫という方が分かりは早いが、戦後、白洲次郎の名は大したものだった。
吉田茂元首相の側近、懐刀(ふところがたな)。GHQ連合国軍総司令部)との連絡機関・終戦連絡中央事務局の参与、次長となって新憲法誕生の現場に立ち会い、さらに経済安定本部(経済企画庁の前身)次長を兼任、第二次吉田内閣の時には貿易庁長官ととして商工省を改組、通商産業省誕生の中心人物となる。
その後、無位無官ながら電気事業再編に関わり、9電力体制ができると東北電力会長。また吉田首相の特使として池田勇人蔵相と渡米。こういう白洲をマスコミは「何の資格で『首相特使』の肩書を与えたかと党人が反感を抱くのは当然」「党外にあって自由党を動かし、省外にあって通産省を動かす」存在と問題視した。
宮沢喜一によれば、初対面の池田だが「聞きしに勝るイヤな男だ」と言ったそうだから、傍若無人、日本語より英語が得意、長身でダンディー、いわばキザな野郎と反感も持たれたのだろう。
だが、GHQに「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男の存在は光っている。「占領中の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ2人――1人は吉田茂であり、もう1人はこのぼくだ」
正子によれば「今時めずらしく頑固で、直情一徹の士」「いい意味での英国式のスノビズムを身につけ」「憂国の士をもって任じ」「乱世に生き甲斐を感じるような野人」だったから、地位、権力には活淡、潔かった。
晩年は小田急線沿線の鶴川に隠居、といっても80歳までポルシェ911を乗り回し、三宅一生のモデルにもなったカッコイイじいさんは、生涯、英国仕込みのダンディズムに徹し、生活の隅々に洗練されたブリティッシュ・スタイルがあった。
余生は軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長として英国式のクラブ運営に情熱を注いで人生を終わっている。
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昭和3年(1928年)、金融恐慌で白洲商店が倒産し、大学院にいた次郎はやむなく帰国する。家族を養うため、東京に出て、ジャパン・アドヴァタイザーという栄司新聞社で英文の記事を書いた。
この年、18歳の樺山正子と知り合う。長身の彼に正子は「ひと目惚れ」。次郎もそうだった。毎日のように英語のラブレターを送り、正子の返事も英文だった。
薩摩藩士で軍人・政治家の祖父資紀、貴族院議員・枢密顧問官を務めた実業家の父愛輔のお嬢さんは14歳で渡米、ハートリッジ・スクールに留学したが、父が関係した十五銀行の倒産で、プリンストン大に留学していた兄丑二(ちゅうじ)と帰国する。
兄が次郎と親交を深め、2人を結びつけた。正子は甘やかし放題のお嬢さんで、縁談は降るほど。しかし、本人はもっと遊びたい。勉強したい。エネネギ―にあるれ、自分を持て余し、内心イライラ、お嫁に行く自信もないから、せめて25歳までは結婚は無理、と思っていたが、すべて目の前で吹っ飛んだ。
「恋は盲目」で、次郎の書く記事が大したものでないのがわかっても、何ほどのこともなかった。昭和4年11月、2人は結婚する。
正子も父愛輔は心配した。留学生時代にドイツで次郎の父文平と一緒で、乱暴者だと思っていた。おまけに破産して一文なしではないか。一方、文平も、実は愛輔を薩摩隼人のくせに腰抜けめ、と馬鹿にしていたという。
「なるべくなら止してほしいというのが(正子の)父母の本音であった」が、希薄で説き伏せる。仲人はいない。次郎が東京クラブに愛輔を訪ね「お嬢さんを頂きます」。父はしぶしぶ諒承した。結納のかわりに小切手を取り交わす。伊丹の文平に挨拶にいった。彼はおてんばな正子を気に入った。
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宮沢喜一によれば「占領期間中、白洲さんはとにかくよく占領軍に楯ついていましたよ」。「扱いにくい日本人」と呼ばれた。口頭で指示されると「細かい点で齟齬(そご)があってはたいへんだから、指示はすべて文書にしてくれませんか」。証拠を残すのである。GHQ内では「ミスター・ホワイ」というあだ名がついていた。また「こそこそ動くウナギ」とも呼ばれた。彼らにとって、実にいやな日本人だった。
日本語は訥弁だったが、英語でケンカするのは得意で、ホイットニー民政局長が、「アナタは本当に英語がお上手ですな」というと、彼は「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」と斬りつけている。
近衛が自殺して間もない頃、天皇陛下からマッカーサー一家にクリスマスプレゼントを渡すことになり、白洲が部屋に持っていった。日本の最高権力者は言った。「そのあたりにでも置いておいてくれ」。次郎は血相を変えて「いやしくもかって日本の統治者であった者からの送り物を、そのあたりに置けとは何事ですか!」。そのまま持って帰ろうとしたので、元師もあわてて謝り、テーブルを用意させた。戦争には負けたけれども奴隷になったわけではない。それがプリンシプル(原則)である。
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昭和55年、78歳で最後の英国旅行をした次郎は、ロビンと生涯の別れの時をすごす。彼は昭和59年に82歳で死んだ。訃報を聞いて以来、次郎はどことなく精気がなくなった。
クルマは生涯の友であり、ポルシェ911、ベンツ、パブリカのピックという小型のトラック、三菱のミラージュ、スバルの4WDなどを「70を過ぎてなお運転し、時にスピード違反でつかまったりしていたが、80歳を超してようやく自らが運転することをやめた」(青柳恵介『風の男白洲次郎』)。
トヨタソアラの開発では、愛車のポルシェ911をポンと提供しているが、完成はみなかった。
骨董など和文化の目利きになった正子とは、個性豊かな面白い夫婦であった。晩年「ウチの婆さんは偉い」とよく口にしたが、「夫婦円満の秘訣は一緒にいないこと」とも述べている。
「軽井沢に行くぞ」。昭和60年秋、次郎は正子と出かけた。2人そろっての旅行は絶えてないことだった。戻ってくると、今度は11月16日より伊賀・京都に行った。嵐山の「吉兆」で、次郎は今までしたこともない、幼い頃に可愛がってくれた「現長(げんちょう)」のおかみの話をした。すると主人が驚いた。「吉兆の親父はんの実のお母(か)はんどす。お家はんいうて、90いくつで亡くなるまで、ここ(嵐山)においやしたんどっせ。不思議な御縁どすなぁ」。「あの時、現長のおかみさんは、次郎を迎えに来て下さったのだ。私はそう思う」と正子は書いた。
帰宅後26日夕、変調をきたして赤坂・前田病院に入院。注射をしようとした看護婦に「右利きですか」と訊かれ「右利きです。でも夜は左」と洒落たが通じなかった。その言葉を最後に眠りに落ち、11月28日、死亡。83歳。イヤシイ奴が大嫌いだった国際人の遺言は「葬式無用 戒名不用」の2行だけである。

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