じじぃの「人の死にざま_237_松平・定信」

松平定信 - あのひと検索 SPYSEE
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松平定信 ウィキペディアWikipedia) より
松平定信は、江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。
【幻の第11代将軍】
田沼意次による田沼政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、田沼の権勢を恐れた一橋家当主・一橋治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥国白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。
一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより田沼意次を激しく憎み、後に田沼暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、田沼に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話・伝説である。
白河藩主就任】
白河藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、それ以前から養父・松平定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。ただし、食料救済措置は市場の米を買い漁る方法で行われたため、米価の急騰及び他の藩での餓死者の増加をもたらした。
教育においては藩士の子弟のための藩校立教館と共に、庶民のための郷校敷教舎も設置し、民衆に学問への道を開いてもいる。
文化においては1801年(享和元年)、日本最古の公園である南湖公園を造り、庶民に開放した。
寛政の改革
天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に徳川家治が死去して田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、幼少だった第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・徳川吉宗享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
松平定信 (1758-1829) 71歳で死亡。
文政12年3月21日、江戸で焼失家屋36万7000戸、焼死者2800人の大火があった。焼け出された人の中に十返舎一九(じっぺんしゃいっく)もいた。
原因は神田の一商店の奉公人が煙草の吸いからをカンナ屑の中に落としたことによるものだが、その処分は、「・・・・不届(ふとどき)につき江戸払い申しつける」というもので、その判決文も現在と大差なく、日本の裁判が当時からきわめて近代的なものであったことがわかる。江戸時代だからといって、ムヤミヤタラに火あぶりにしたわけではないのである。
それはともかく、いわゆる寛政の改革をやった松平定信は、すでにこのころ隠居となって久しかったが、この火事で上屋敷中屋敷下屋敷すべて焼き払われ、親類筋の松山侯の屋敷の一部を借りて暮すことになったが、2ヵ月後の5月13日、卒去した。前年の暮れまで毎日剣槍の稽古をするほど健康であったが、病名不明。
大名の隠居で、いっときは老中までした人物が寄宿先の家で死んだのは例がなく、ために「十万石の宿なし」といわれ、改革で民をしめあげたタタリだとも噂された。

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徹底歴史研究同盟
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