じじぃの「実は、この話は」検索

『日本の歴史 ハテ、そういえば…? いまさら聞けない長年の大疑問』 歴史の謎を探る会/編集 河出書房 2010年発行
名高い「大岡裁き」は本当にあった話なのか?
江戸の名奉行・大岡越前守忠相には、「大岡裁き」とよばれる話が、いくつも伝わっている。たとえば、子どもの親権を主張するふたりの母親の裁き。そのふたりの母親に、それぞれ子どもの手を引っ張らせ、勝ったほうに親権を認めるという。
が、結果は、「痛い、痛い」と泣き叫ぶ子どもをみて、それ以上引っ張るのに忍びないと手を離したほうが、実の母として認められた。
しかし、この名裁きも、じつは、中国の判例集「棠陰比事(とういんひじ)」がネタ本のフィクション。
それ以外にも、ほとんどの話が、日本や中国の判例集をもとにしたフィクションであることがあきらかにされている。つまり、江戸時代末、読み物として書かれた話にすぎないのである。
じっさい、江戸町奉行として、20年間に25万余件もの事件を裁いたことになっているが、これもウソ。
この大岡忠相町奉行としては、司法面より、江戸町火消し「いろは四十八組」を創設したり、小石川養生所を開設したりと、むしろ、行政面で実績を残した人だった。
しかし、それだけに、江戸の人々へのウケもよく、「大岡裁き」の作り話も、違和感なく受け入れられたのだろう。
鉄砲が最初に伝来したのは種子島じゃないって本当?
「行(い)こよ見(み)に種子島へ」。種子島へ鉄砲が伝来した1543年という年号を、こう覚えた人も多いはずだ。日本に、はじめて鉄砲が伝来した年である。
もちろん、教科書的には、この年号で正しいが、非公式には、これ以前にも鉄砲は、日本へもちこまれていた。種子島へ伝わる前に、九州の平戸へ入っていたのである。
鉄砲を日本へもちこんだのは、五島付近を根城に海賊の頭領をしていた王直という男。もともと、中国の明の生まれだが、明を追われてから、倭寇を率いて海賊になる。
その王直が、平戸城主の25世肥前守興信に、弾薬と鉄砲一挺(いっちょう)を献上しているのである。種子島へ伝来する3年前のことだ。さらに、興信自身も、その翌年、王直を通じて、数十挺の鉄砲と弾薬30貫を購入している。
合戦で、はじめて鉄砲をつかったのは、その子・26世源三郎興信。1544年、松浦党の松浦丹後守親と戦って、現在の佐世保市にある飯盛山を攻めたとき、鉄砲をつかっている。

                                                • -

どうでもいい、じじいの日記。
ぼけっと、『日本の歴史 ハテ、そういえば…? いまさら聞けない長年の大疑』を見ていたら「名高い「大岡裁き」は本当にあった話なのか?」があった。
実は、この「大岡裁き」の話は中国の判例集「棠陰比事」がネタ本のフィクションなのだという。
「鉄砲が最初に伝来したのは種子島じゃないって本当?」には種子島へ鉄砲が伝来したときは、すでに平戸城主に鉄砲が献上されていたのだそうだ。
歴史の真実は意外と隠されているのだ。
ネットで「実は この話は XXXX」をキーに検索してみた。
●「三方一両損」は、落語で有名な話。 だが、その裏には、秘められた真相があった。 実は、江戸時代、金太郎と熊五郎がいる。この二人は、財布の持主と、財布を拾った男だ。ただし、拾った財布について、「おれのものだ」と奪い合うのではなくて、「あんたのものだ」と押しつけあった。(ここは気っぷのいい江戸っ子である) さて。ここで、大岡越前に裁定してもらう。大岡越前が一両を出して、双方に二両ずつ渡す。そして、「三方一両損」という裁定を出す。これで完結。 (ここまでは落語) しかしその真相は・・・・ 金太郎と熊五郎は、グルであった。双方は示し合わせて、大岡越前から一両をせしめた。その一両を、双方で分けあって、二人とも儲けた。「しめしめ、大岡越前をだますのは簡単さ」
 http://nando.seesaa.net/article/76852767.html
●実は、田沼意次という人は賄賂狂いの汚職政治家などではなくて、 北海道開拓なども視野に入れた先見性のある政治家だったことが描かれていました。確かに田沼意次は賄賂狂いの汚職政治家ではありません。田沼の重商主義政策によって貨幣経済が発展し賄賂も増えたけれども、賄賂自体は江戸時代を通じて経済の潤滑油として機能していたのです。決して田沼は私腹を肥やしたのではないのです。現代の教科書では田沼を追い落とした松平定信寛政の改革と美化して、田沼時代を貶めているが、これはとんでもない歴史の歪曲なのです。
●実は、ノーベル賞の権威を疑わしくする代表的分野が平和賞と文学賞です。経済賞もしばしば取り沙汰されます。ノーベル賞で最高のスキャンダルは、なんといっても5億$の裏金を送り首脳会談を行った金大中さんでしょうなあ。しかも、その後、北は核兵器を造り、爆発実験まで行い、朝鮮半島には平和は来なかった。
●あの桜の木のエピソードは作り話だったって知ってました? この美談、実は作り話。このエピソードは『逸話で綴るワシントンの生涯』で紹介されて一躍有名になったんですけど、初版ではこの話は掲載されてませんでした。本が売れ始め、評判になり始めたのでより魅力的な逸話を付け足そうと、第五版の改訂の時に作者が勝手に付け加えたモノ。
●「東条は実は悪党の仲間入りするだけの資格のない几帳面な小心者だった。もとより戦時宰相の器ではない」。木戸内府が「東条なら戦争に持ち込まないだろう」。そう考えて無理に東条を首相に推したのも、外見だけを見ていたからだったのではないか。
●実は、当時飛行を阻止しようと提案したのは、林彪と一線を画そうと焦った呉法憲だった。周恩来の人柄から言って、重大な問題を自分勝手に処理することはあり得ない。・・・・。周恩来に膀胱癌が見付かったことが発端でした。不幸中の幸いで早期発見だったため、早期摘出手術で問題が解決されるはずでした。指導層の大手術には、毛沢東などの許認可が必要でしたが、障害があろうはずもありませんでした。「ところが、毛沢東の返答は人々に疑念を抱かせるものだった。毛が汪東興を通じて主治医たちに伝えてきた4項目の指示は、1.秘密にし、総理(周恩来のこと)と夫人の訒姉さんには知らせないこと、2.検査不要、3.手術不要、4.看護と栄養を強化すること、というものだった」
●実際のところ西暦70年のエルサレム破壊でもユダヤ人がパレスチナからいなくなったわけではありません。いなくなったのはエルサレムからです。ですから、当時のユダヤ人の多くは実はそのままパレスチナに住み続け、今パレスチナ人になっているわけです。
●2004年3月24日放送のトリビアの泉から 「部屋を貸しただけでノーベル賞を受賞した人がいる 83へぇ 」。「清少納言股間を丸出しにして女であることを証明した事がある 76へぇ 」。清少納言にそんなエピソードがあったとは。尼の格好をしていたのに、男の僧兵に間違えられたってことは、実はかなりゴッツイ人だったのか?
●実はフランス革命イングランド革命といった革命と似て、民主化の動きである。・・・・。総じて、人口動態、乳児死亡率、女性の出産率なんかで社会の動きがかなり予測できるのではないかという提起がとても面白い。エマニュエル・トッドは、1976年に、ソ連崩壊を乳児死亡率の上昇から予測し、有名になった人。他にも人口動態から何かを予測することはできそうである。なかなか盲点である。
●胃ガンの原因の約9割がピロリ菌によるものと聞きました。実はピロリ菌の感染経路はまだはっきり解明されていないようです。
切りがないので、ここらで止めとこ。
今も、どこかで「隠された真実」が進行中なのかもしれない。