じじぃの「人の死にざま_1253_王・直」

王直 - あのひと検索 SPYSEE
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五島列島倭寇像』 動画 YouTube
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室町時代倭寇日明貿易 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=QxhYn0U0E_w
平戸・島原・天草(4)王直ゆかりの地を歩く Mangiare Felice
日本にポルトガル船をひっぱってきたのは、王直であった。この意味で王直は、日本史上の重要な人物と言っていい。(司馬遼太郎著『街道をゆく 肥前の諸街道』より)
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王直 ウィキペディアWikipedia)より
王直または汪直(生年不詳 - 嘉靖38年(1559年)12月25日)は中国、明代の貿易商人(海商)で、後期倭寇頭目。五峰、老船主と称した。

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『世界史の叡智 - 勇気、寛容、先見性の51人に学ぶ』 本村凌二/著 中央公論新社 2013年発行
王直(おうちょく) 倭寇の大頭目となった漢人 (一部抜粋しています)
中国は明代のころ「北虜南倭(ほくりょなんわ)」に苦しんでいた。北からは騎馬遊牧民のモンゴル人が迫り、東南沿岸部では倭人(日本人)海賊である倭寇の暴威が吹き荒れたからだという。被害者意識まるだしのスローガンだが、その実像はどうなのだろうか。
16世紀半ば、モンゴル人を率いるアルタン・ハンが北京を包囲する大事件が起こった。北京の住民は恐るべき騎馬民族民に震撼した。だが、これには明朝側にも責任がある。古来、遊牧民にとって中国との交易は生活に欠かせない経済活動だったが、明朝はこの通交を認めていなかったのだ。
この武力行使に屈した明朝は、馬市(交易所)を開設したが、ほどなくモンゴル側との関係悪化で閉鎖してしまう。そのころ国内で弾圧された白蓮教徒を中心とする漢人たちが長城を越えて北方に逃れ、これらの逃亡漢人はなにかにつけアルタンの勢力を手助けした。やがて、アルタンも老齢になると、和平交渉に応じるようになった。明への朝貢を義務づけられるとともに、北辺での馬市が認められた。
同時代はまた、倭寇がはびこったときでもあった。だが、これもまた歴代の海禁政策によって、民間の海上交易が禁じられていたからでもある。
すでに16世紀の初めごろから、中国沿岸には密貿易の拠点がぼつぼつ姿を見せていた。海寇の頭目たちがマラッカのポルトガル人や日本の博多商人などを引きずり込んで巨万の富を得ていたという。なかでも、世紀半ばは大倭寇時代とよばれたが、それを担った巨頭が王直であった。
山深く耕地の少ない内陸部の微州(きしゅう)ではいささかでも志のある青年は郷里を出て広域商業を営むことが少なくなかった。なかでも微州商人は山西(さんせい)商人と並んで明清代の商業交易にめざましく活躍している。王直もその例外ではなく、塩商を営んだが、失敗してしまう。だが人間としては、かなり魅力的なところがあったらしい。
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仲間を引き連れ、巨船を建造すると、禁令を犯して東南アジアや日本と交易し、巨利を得る。一説によれば、1543年のポルトガル人による鉄砲伝来も、王直の船が種子島に漂着したことによるという。
やがて、五島(長崎県)や平戸(同)にも拠点を構え、日明間の密貿易に暗躍した。このような漢人を中心とする密貿易が倭寇の実態である。それらの集団から大頭目にのりあがったのが王直であった。とはいえ、ほとんど略奪行為のごときものであり、内陸部に侵入することもあった。明朝は倭寇に手を焼き、処置に困ったのである。
切り札は同郷のよしみをもつ高官だった。王直を招くために、捕えられていた王直の母と妻子を釈放し、優遇する。五島にいた王直のもとに家族からの手紙が届けられ、感激した王直は帰国の決意をした。もちろん身の安全を保証するとの約束を得てのことだった。
公のもとに降った王直は厚くもてなされ、律義な高官は約束どおり王直の罪の許しを朝廷に上申した。だが逆に王直から賄賂をもらったとの嫌疑がかかる。やむなく王直は斬罪(ざんざい)に処されてしまう。