じじぃの「人の死にざま_233_ライシャワー」

エドウィン・O・ライシャワー - あのひと検索 SPYSEE
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East Asia and Our Future, part 4 of 6, February 1967 John King Fairbank Edwin O. Reischauer 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oneaMZE2h0w
エドとハル−ハル・ライシャワー心の旅路 テレビドラマデータベース
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-30136
エドウィン・O・ライシャワー フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
エドウィン・オールドファザー・ライシャワー(1910年10月15日 - 1990年9月1日)は、アメリカ合衆国東洋史研究者である。ハーバード大学教授。1955年から1963年までハーバード燕京研究所所長、1961年から1966年まで、駐日アメリカ大使を務めた。大使退任後はハーバード大学日本研究所所長として歴史に限らず日本研究を推し進め、後進の指導にも尽力した。その功績から同研究所は1985年にライシャワー日本研究所と改称されている。
【松方ハルと再婚】
1946年にはハーバード大学に戻り、極東学会の副会長、会長を歴任する。また、1948年には人文科学顧問団の一員として再び連合国の占領下の日本へと戻る。1955年にアドリエンが3人の子供を残し急逝し、1956年には、明治時代の元勲の松方正義と、生糸貿易の先駆者で元横浜生糸会社会長の新井領一郎の孫、さらにアメリカンスクール・イン・ジャパンの後輩である松方ハル(1915年 - 1998年)と日本において再婚する。この年にハーバード燕京研究所所長となった(1963年まで)。
【駐日大使就任】
日米間に大きな亀裂を残した安保闘争直後の1960年夏、日本を訪れたライシャワーは、「損なわれた対話(Broken Dialogue)」と題した論文を外交専門雑誌『フォーリン・アフェアーズ』1960年10月号に発表し、「アメリカをはじめとする西側諸国は、日本の政府(閣僚や与党議員)や財界の指導者層だけでなく、野党や右翼、左翼活動家、知識人とも異端視することなく対話を重ね、日本の主流から外れた人々の実態や抱える不満を把握するべきである」と主張した。この論文が当時就任して間もないジョン・F・ケネディ政権の国務次官であるチェスター・ボールズの補佐官のジェームス・C・トムソン・ジュニアの目にとまり、駐日大使への就任要請につながったと言われる。
ジョン・F・ケネディ大統領からの大使就任要請を受諾したライシャワーは、1961年4月には駐日アメリ特命全権大使として東京に赴任し、「日本生まれのアメリカ大使」として日本人の妻とともに日本国民から人気を博す。
なお、ライシャワーは駐日大使在任中にほぼすべての都道府県を訪問した他、妻のハルも女性団体やその他各種団体などとの会合に積極的に出席するなど、市民との接触も積極的に行い、その活動は数多くのマスコミで大きく報道された。
ライシャワー事件】
1964年3月にアメリカ大使館門前で統合失調症患者にナイフで大腿を刺され重傷を負った。この時に輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と発言し多くの日本人から賞賛を浴びたが、この輸血が元で肝炎に罹る。その後、これがきっかけになり売血問題がクローズアップされ、その後日本において輸血用血液は献血により調達されることになる。この事件は「ライシャワー事件」と呼ばれ、精神衛生法改正や輸血用血液の売血廃止など、日本の医療制度に大きな影響を与えた。
【帰国後】
大使を辞任して帰国後、ハーバード大学教授に帰任、ベトナムへの干渉や中華人民共和国の承認、沖縄返還、対韓国政策の再考などに関し精力的に発言。1973年にハーバード大学日本研究所所長に就任。その他同大学の東アジア研究評議会理事、OECD理事やアジア基金理事など数多くの役職を務め、日本を始めとする極東問題の専門家として歴代政権やヘンリー・キッシンジャーズビグネフ・ブレジンスキーなどの外交関係者に対し助言を行った他、日本及びアジア研究者として日米間を緊密に往復しつつ活躍した。
1964年に上記の襲撃事件により肝炎に罹患、大使退任後も度々の発症に悩まされていた。また、1975年2月には脳卒中に見舞われたほか、1983年には脳内出血にも見舞われた。
【その他】
日本語の会話能力は高かったにもかかわらず、駐日アメリカ大使として表に出る際には、アメリカの外交官として決して日本語を使わず、必ず通訳の西山千を通じて話していた。ライシャワーに限らず、大使などの公人は外国語を公の場では口にせず通訳を介するのが通常である。
著書の中で、日本国憲法について「日本人自身によって制定されたものではなかったのだ」と書いている。

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ライシャワーの昭和史』 ジョージ・R・パッカード/著 森山尚美/翻訳 講談社 2009年発行
穏やかな最後の日々く (一部抜粋しています)
ライシャワーは、米日間で高まる摩擦がどのように解決されるかを知ることなく、1990年9月1日、80歳の誕生日を迎える前に亡くなった。ちょうど日本の「バブル経済」がはじけはじめたときだったから、その結果生じた「失われた10年」を予期することはできなかった。最後の数ヵ月は、カリフォルニア州ラホーヤで、妻と子供や孫たちに囲まれて過ごした。時折、昔の教え子やジャーナリストや友人の訪問を受けていた。健康は衰えていたが、幸せな日々だった。子供たちとの関係は落ちついていた。レクチャーをしていたし、いくつかの機関の理事会メンバーとなっていたから、生涯初めて金銭的に安定していた。自分の教えと、書いていることが論理的で正確であり、実際に起きることによって正当化されるという確信はゆるがなかった。日本の「ふつうの人たち」に対する信頼を失うこともなかった。
しかし、亡くなる前には、日本をまたしても敵対的で、脅威であり、不思議で、理解不能と描く批判者たちが一見、力を得ているのを知り、驚き、悲しんだ。1990年7月のハリス世論調査で、アメリカ人の68%が、日本からの経済的脅威を、ソ連の軍事的脅威よりもアメリカの正体にとって重大な脅威とみている、という結論が出たことを知っていた。「リビジョニスト」は、さしあたりマスコミで優勢を占めていた。
私が彼と最後に話したのは、1990年5月、ラホーヤの家を訪ねたときだった。亡くなる3ヵ月前だった。しっかりと立つことができず、疲労で苦しんでいた。だが、あいかわらず威勢がよく、楽観的だった。「リビジョニスト」から浴びせられている批判について尋ねると、「日本は変われるということを、どうして理解できないのだろう」といった。これからまだ書きたい本があるかと尋ねると、彼は、2冊書きたいときっぱりいった。1冊は、技術革新と、変化に対する文化的受容性が合わさった結果として進歩が起こる、という考えにもとづく包括的な世界史の本、もう1冊は、アメリカの生活におよぼしている日本文化の影響についての本ということだった。
ライシャワーは、1990年の夏のあいだ、おわりが近いことを悟っていた。8月25日、病院へ連れていかれたとき、自分の延命のために特別な処置をとらないように頼んだ。慢性的なC型ウイルス性肝炎が、肝硬変、さらには肝細胞性のガンないし第1期の肝臓ガンをひき起こしていた。肝臓移植以外には治療法はなかったが、彼の年齢と体調を考えると、もはや考えられなかった。終末期には、チューブで栄養をとっていたが、8月31日に、それを取り外してくれといった。そして翌9月1日、ラホーヤのスクリプス・クリニックで穏やかに死を迎えた。
晩年の彼の想いはどうだっただろうか。1986年にこう書いていた。
 私の命の小さな滴(しずく)は、しかるべきところに落ちて、長く、ときには荒々しく、ときには穏やかな流れをつくってきたが、つねに世界の出来事の大きな流れのなかにあった。その過程は最初から最後まで興味ぶかく、歩む甲斐のあるものであった。いま河口に近づくにつれて、流れはゆるやかになり、仏教でいうように、無窮の大海に合一する瞬間(とき)に備えている。唯一、心残りなのは、歴史家としての悔いである。私は歴史における自分の瞬間に満足しているのではなく、すべてのことの成り行きを見たいという欲望に心を奪われている。
川の比喩は、彼自身の仏教研究から生まれたのであろう。父オーガスト・カール・ライシャワーが1917年に書いたものを知っていたと思われる。
 来世の自分の魂に備えようとする人間の努力ほど無益な努力はない。それはあたかも、雨の滴が、ほんの一瞬のあいだふりかかる太陽の光線によって生じた虹の色彩を、滴のなかにとどめようとするのに似ている。雨の滴は必ず地に落ち、そのあと、他のものと合一して、小川に、そして大海に流れこみ、そこで合一性の永遠のふかみに入る。滴、あるいは、滴が永久に保持したいと思った虹の色はどうなったのか。
父は後のほうに、こう書きくわえていた。
 [仏教は]すべての川は最後には大海に流れこむことを教えている。小川がどれほど汚れていようと、ゆがんでいようと、あるいは緩やかであろうと、最終的には太陽に到達し、その底ですべての水は純化される。
ライシャワーは"田んぼ"講座の教科書で、仏教のニルヴァナの概念を次のように説明した。「文字どおりの意味は『空っぽ』であるが、ニルヴァナとは、たんに消滅ではなく、水の滴が海に平和裡に合流することに、もっとも近いと感じられるものだった」
ライシャワーは葬儀も、花も、宗教的儀式もいっさい望まなかった。彼の望みどうりに、家族は太平洋に近い丘に集まり、小型機が上空を舞い、表敬のために翼を少し下げてからまたすぐ上げて、彼が愛した2つの国をむすぶ青い海に灰をまくのを見守った。
彼は自分の生涯を、どう思っただろうか。妹は聾唖者に生まれ、知的に障害をもっていた。兄は30歳の若さで、投弾により命を奪われた。2つの祖国は流血の戦争を戦った。病気で動けないことが多かった母親は、幼い彼の面倒をみることができず、のちに神経衰弱になった。
彼が愛してやまなかった最初の妻は43歳で亡くなり、ティーンエイジャーの3人の子育てに彼は追われることになった。彼自身は、日本の若者に刺され、そのときの輸血が原因で長く患わされることになった。そして、晩年には、自分が尽力して創り上げた分野の若手の学者たちから無惨なほど非難された。そうした人生を彼自身は、悲劇的あるいは不運だった、と考えただろうか。まったくそんなことはない、と彼の子供たちは断言する。
「すべてを考えれば、父はよい一生を送りましたし、本人もそう思っていました」と一番上の娘アンはいう。エドライシャワーは自分を哀れに思ったことはなかった。
日本の大新聞のほとんどが第一面に、愛情あふれる記事を載せた。ローカル紙の『信濃毎日新聞』も大きく報道した。見出しは、「ライシャワー博士 日本思いながら尊厳死 ハル夫人語る=太平洋望む病院で」だった。

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【あめりかノート】古森義久 異質論正すライシャワー伝記 2008-09-28
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