じじぃの「人の死にざま_229_泉・鏡」

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泉鏡花 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
泉鏡花(いずみきょうか)は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家。戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎。金沢市下新町生れ。
尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。代表作に『婦系図』『歌行燈』『夜叉ヶ池』など。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
泉鏡花 (1873-1939) 66歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和13年、鏡花は1作も発表せず、11月ごろから身体の不調を訴えるようになった。翌14年、「中央公論」7月号に『縷紅新草(ゐこうしんそう)』を発表したが、1枚書いては休み1枚書いては休むという、文字通りる骨の執筆ぶりであった。
以下は村松定孝『泉鏡花』による。
「『縷紅新草』を病苦を押さえ、すず夫人の心配を退けて執筆したのち八月病勢がつのった。
執筆中、すでに『右胸部が凝(こ)る』と、ときどき訴えていた由であるが、当時は主治医三角博士の診断では変化を認めず、病床についたのは7月下旬であった。
その頃は専(もっぱら)ら腰部の疼痛に苦しみ、8月中旬に至り三角博士は稲田竜吉博士と共に病因−−癌性肺腫瘍を確認した。しかし博士等は夫人には、そのことをひそかに告げたが、鏡花の異常な神経過敏を憂慮し、その真相を伝えることを禁じた。
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永眠の日(9月7日)は朝のうちは気分は爽快だったらしく、三角博士は強心剤の注射を行い、鏡花は麦飯と味噌汁で朝食を摂り、なお鶏卵を食べたいなど訴えたが。これは昼食のたのしみにと夫人が云いふくめた。
午前11時の診断の際、博士は指端に軽度のチアノーゼを認めたので、事態の切迫を思い、夫人にそのことを耳うちした。
夫人はいそぎ里見家(鏡花の住居の道ひとつへだてた向かい側の有島邸)に急を告げ、里見家より電話で知友数氏にこれを伝えた。
その報で、笹川臨風柳田国男久保田万太郎小村雪岱の4氏が来訪、臨時に病室とした4畳半の茶の間の病床の裾(すそ)に諸氏が座を占め、里見氏が来たのをみて、鏡花は周囲を見わたし、『大分皆さんが御出での模様だが病気がそれほど良くないのかな。それならば、ここにいては不都合だろう。寝床を変えてくれ』と告げた。このとき、すでに彼は臨終を覚悟したのであったろうが、臨終に際して、その病床の位置を指図するあたりは、やはり明治人らしい几帳面さが感じられる。
そのとき里見氏は『病床を動かして大丈夫かしら』と博士にたずねた。博士は『十分注意して床のまま移せばさしつかえないでしょう』と答えたので、夫人が病床を4畳半から、隣室の8畳の間に移すと、ほとんど同時に激変の模様があり、博士は即座に注射を4本したが、このときはもう心臓の活動はなかった。かくて昭和14年9月7日午後2時45分、鏡花は白玉桜中の人となったのである」
鏡花はふだんから自宅の庭に来る雀を愛し、一尺四方の屋根をかけた雀用のあずまやを作ってやり、そこに米を盛った皿や杉箸に糸を結んだ小さなブランコまで用意し、必ず来るなじみが12、3羽いる、といっていた。
「御臨終の間際、騒々しいほどの啼(なき)声には気づかなかったが、何に驚いたのか、一時にぱっと飛び立つ羽音と、間髪を入れず、明、大、昭、の3代にわたっての名匠の息が絶えた」 (里見敦『飽かず見詰めて』)
死ぬ前に鏡花はすず夫人に「ありがとう」といった。彼女は『婦(おんな)系図』のお蔦のモデルであったといわれる。
枕頭の手帳に鉛筆で「露草や赤のまんまもなつかしき」と書かれたのが絶筆となった。

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泉鏡花(拡大画像) 近代日本人の肖像
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/230_1.html