じじぃの「人の死にざま_221_ミレー」

あの人に会いたい ジャン=フランソワ・ミレー SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%BC/5884/
Jean Francois Millet 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PNVLBNERL_w
種まく人 画像
http://art.xtone.jp/museum/images/mirei_tane.jpg
ミレー作 「落穂拾い」

生誕200年ミレー展 - 愛しきものたちへのまなざし - 山梨県立美術館
2014年は、ジャン=フランソワ・ミレー(1814 - 1875)の生誕200年にあたる年です。
本展はこれを記念し、国内外のミレー作品約80点によりミレーの画業を回顧します。
http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/exhibition/specialexhibit_201407.html

ジャン=フランソワ・ミレー ウィキペディアWikipedia)より
ジャン=フランソワ・ミレーは、19世紀のフランスの画家。
『種まく人』
ミレーの代表作のひとつである『種まく人』には、画面のサイズから構図までほとんど同じと言ってよい2つのバージョンがあることは、よく知られている。2枚の『種まく人』のうち1枚はボストン美術館にあり、もう1枚は山梨県甲府市山梨県立美術館に所蔵されている。

                                            • -

KIRIN 〜美の巨人たち 
美の巨人たち ミレー『落穂拾い』 2012年6月16日 テレビ東京
【ナレーター】小木薫
今回ご紹介するのは、恐らく誰もが美術の教科書などで一度は目にしたことのある名画です。ジャン・フランソワ・ミレー作『落ち穂拾い』。農民画家と呼ばれたミレーの最高傑作といわれる一枚です。はるか地平線まで広がる麦畑のパノラマ。画面中央では貧しい野良着姿の三人の農婦が腰をかがめ、大地に散らばった落ち穂を拾っています。聖書によると、刈り入れの時にこぼれた麦の穂は、貧しい孤児や未亡人が拾うことを許された神の報酬でした。三人の背後では、大勢の人が作業に追われています。刈り取った麦を荷馬車の上へ、その隣では刈穂をまとめるのに大忙し。馬に乗って指図するのは農場主でしょうか。その収穫の賑わいから遠く離れ、三人の農婦たちが黙々と落ち穂を拾っています。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/120616/index.html
『一冊でわかる絵画の楽しみ方ガイド―印象派写実主義から抽象絵画シュルレアリスムまで』 太田治子/著 成美堂 2005年出版
ミレー (一部抜粋しています)
小さな羊飼い
自らも古い農家に生まれ育ったミレーは、子供の頃から農民の厳しい生活をつぶさに体験している。彼の初めてのデッサンは羊飼いだったという。広い草原で羊の番をする幼い女の子。粗末な衣服が風になびき、頭巾をすっぽりかぶった立ち姿にあどけなさが感じられる。
羊飼いの仕事がいかに辛抱強さを必要としているか、画家はいやというほど知っている。羊たちの鳴き声や草の匂いまで伝わるような描写。
種まく人
肩から下げた粗末な布袋に手を突っ込み、種を前に向かってまきつける男。腕が激しく動き、種は美しい弧を描いて飛び散る。右の足を踏み出し右腕を振り回した瞬間の動きが左から右に傾斜する地面と呼応して、躍動感を強調。1人の農夫にこれほど雄大な印象を与えているのは大地に根ざした普遍的な存在感を描いているからだろう。
男がまいているのはソバの種。フランスではそばでクレープやパンを作る風習がある。

                                            • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ミレー (1814-1875) 61歳で死亡。 (一部抜粋しています)
画家になって以来死ぬときまでフランスの寒村バルビゾンに住んで、「種子(たね)まく人」をはじめとし、困苦に満ちた農村の労働生活ばかりを描いたフランソワ・ミレーは、その絵の価値を認める人は数少なく、従って絵は安い値段でしか売れず、妻と9人の子供をかかえ、晩年に至るまでひどい貧乏に苦しみつづけた。
ロマン・ロランは書いている。「『落穂拾い』の年である1857年には、ただ彼の良心さえその考えに怖れてしりごみしなかったら、貧困が彼を自殺にまで追いやったかもしれないのである」
「晩鐘」の年である1859年には、ミレーは冬のさなかに次のように書いている。「私たちはもうわずか2、3日間の薪しかなく、それ以上を手にいれるあてが何もありません。妻は来月に分娩しますから、私は無一物になってしまうでしょう」。しかもこの年にはあやうく盲目になりかかり、血を吐いた。その上なおしばしば、時には幾週間もつづいて怖ろしい頭痛や眼の痛みに苦しんだ。
ミレーは、後に一部の批評家から誤解されたような新しいデモクラシー鼓吹者でもなければ、感傷的な社会主義者でもなく、先天的な性格として、自分の人生にもこの世界にも、よろこびのかけらを見出だすことの出来ない人間であった。人生も世界も、それらはただ悲哀に満ちたものとしか感じられなかった。しかし彼は、それらに対して不平も怒りもおぼえることなく、それを平成に受け入れ、その心情をそのまま、柔和で憂鬱な、素朴で壮重な絵として描きつづけたのである。
彼の絵がややいい値で売れはじめ、ようやく生活に多少の余裕が出て来たのは40代半ばを過ぎてからであった。
彼は大柄でがっちりした体格をし、牛のような肩と農夫のような手を持っていたにもかかわらず、50代半ばから急激に健康が衰え、1872年――58歳のときにはまたも頭痛と眼の痛み、神経の錯乱とで、いく度も病床につき、翌年にははげしい喀血をした。
1874年2月には本格的に床につき、こんな厭世主義者でありながら「自然や芸術がやっとわかりかけて来たのにこの世を去らなければならぬとは、死ぬのが早過ぎる」といった。そして翌年1月20日に死んだ。

                                            • -

ミレー Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%BC&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=Jm4PToCuLaXQmAWzs-3BDg&ved=0CFcQsAQ&biw=922&bih=539