じじぃの「ミレー・『晩鐘』・泣いている情景?怖い絵」

NHK出版 生活人新書 「怖い絵」で人間を読む PV 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Uv0lmuwSs-k
JEAN FRANCOIS MILLET,PINTOR FRANCES REALISMO 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lcPe-tZhB7E&feature=related
晩鐘

死と樵

晩鐘(ダリ)

ジャン=フランソワ・ミレー Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%BC&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=UU0ETrONFY64sQOg9dHRDQ&ved=0CCkQsAQ&biw=922&bih=540
ジャン=フランソワ・ミレー ウィキペディアWikipedia)より
ジャン=フランソワ・ミレー(1814年10月4日-1875年1月20日)は、19世紀のフランスの画家。
【生涯と作品】
1814年、フランスノルマンディー地方ラ・マンシュ県の海辺にあるグリュシーという小さな村に生まれた。8人兄弟の長男、父は農民であり村の教会の合唱指揮者でもあった。大原美術館にあるパステル画『グレヴィルの断崖』は、晩年の1871年頃の制作ではあるが、故郷の海岸の風景を描いたものである。19歳の時、グリュシーから十数キロ離れたシェルブールの街で絵の修業を始め、22歳の1837年、パリへ出て、当時のアカデミスムの巨匠であったポール・ドラローシュに師事する。デッサンや模写のほか、聖書や神話など画題となる古典文学にも学ぶ。26歳の時、肖像画がサロン(官展)に初入選するが、奨学金が停止されていたため、生活は貧く肖像画や裸体画を描いた。この頃の画風はマニエル・フルーリ(華やかな手法)と評されており、繊細で柔らかなタッチと明るい色彩が特徴で、神話画などを多く手がけている。
1841年、シェルブールで仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚しパリに住むが、彼女は3年後の1844年に肺結核により病死する。1846年には同棲中だったカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性との間に第1子が誕生。このカトリーヌと正式に結婚するのはかなり後の1853年のことであるが、それ以前の1849年、パリにおけるコレラ流行を避けて、ミレーはパリの南方約60キロの、フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾンへ移住し、以後同地で制作を続けた。この頃には共和国政府からの依頼もあり、経済的にも安定して農民画に専念し、『種まく人』をサロンへ出品するのは翌1850年のことである。ミレーの代表作に数えられる『晩鐘』『落穂拾い』などの代表的農民画は、バルビゾン移住後の作品である。
また、ミレーは19世紀における広まった月暦画以来の伝統を持つ「四季」の主題の連作にも取り組み、ドラクロワやその弟子アンドリウとも交流している。

                                    • -

『怖い絵 2』 中野京子/著 朝日出版社 2008年発行
ミレー 作品『晩鐘』 (一部抜粋しています)
『晩鐘』の原題は『アンジュラスの鐘』という。
ここはパリから南に50キロほど下った、小さな村バルビゾン。遠くに見えるシャイイ協会が日に3度、朝昼晩とアンジュラスの鐘の音を響かせ、人々に時を告げるとともに祈りを促す。夕闇迫る今この時は、1日の終わり、つまり苛酷な戸外労働の終りを意味し、若い夫婦は首を垂れて祈ったあと家路につくであろう。画面右上の、ねぐらに帰る烏(からす)たちと同じように。
背景の明るさとは対照的に、ふたりの立つ前景は暗い。陽の当たる背景には積み藁(わら)の名残(なごり)が見られ、豊かな麦畑であることが示され、影の濃い前景の土地は痩(や)せ、夫婦のわずかな収穫はジャガイモである。ミレーのもうひとつの傑作『落穂拾い』と同じく、「富む背景、貧窮(ひんきゅう)の前景」が示されている。ジャガイモはパンを食べられない貧民の主食だった。だから手押し車に載せた袋には商品用のそれ、足もとの手籠には自分たち用のそれと分けて入れてある。
両手を合わせた妻と帽子を持つ夫の祈りのつぶやき、澄(す)みわたる鐘の音、そして遠く鳥の鳴き声と、農村の夕暮れに満ちるさまざまな音さえも聞こえてくるような画面だ。ふたりの人間が向き合って立っているだけの単純な構図の中に、農民の人生(ひいてはその運命)、日々の労働(ひいてはその崇高さ)、また貧しいながらも愛し合い信頼し合う夫婦の美しさが、みごとに捉(とら)えられている。
      ・
時代は進み、19世紀末には、ミレーは美術史に確たる位置を占めるようになった。『晩鐘』も名画として世界中に複製がばらまかれ、1904年スペイン生まれのサルバドール・ダリの生家にも、このレプリカが飾られていた。ダリは幼いころからそれを目にしていたが、月日が経つにつれてそのイメージは彼の頭の中で増幅されてゆき、ついには画中の男と自己同一化するに至る。そして・・・・男の感じている恍惚への期待と死の恐怖を味わった、というのだ!
恍惚への期待? 死の恐怖? いったい何のことやらさっぱりわからない、というのがふつうの感覚ではないのか。ダリの断片的草稿による『ミレー≪晩鐘≫の悲劇的神話』(未発表に終った論文を集めたもので、さまざまな時期にさまざまな主張をしているため不統一)をもとに、見てゆこう。
まずダリは、女の足もとに置かれて手籠を不自然と感じる(そう言われればそんな気がしないでもない)。最初は籠ではなく、小さな――おそらく彼らの子どもを入れた――棺(ひつぎ)を描いたのではないか。つまりこれは1日の終りを感謝する祈りではなく、亡き子を土に埋めた後、母は祈り、父は泣いている情景だった。ところが誰かに忠告されたか、ミレー本人の気が変わったかして最終的にこのような形に変更したのではないか、と。
確かにアンジュラス(=エンジェル)の祈りには、「聖母マリアさま、罪あるわたしたちのため、今も、臨終(りんじゅう)の時も、どうぞお守りください」との言葉がある。またミレー自身、友人への手紙にこう書いている、かって信心深い祖母から、アンジュラスの鐘の音が聞こえるたびに仕事を中断させられ、「死者たちのために祈りなさい」と言われた、それを思い出しながらこの絵を描いたのだ、と。
著名なダリのの説を裏付けるべく、さっそく美術館がエックス線をかけてみた。結果は微妙である。籠が描かれている部分の下には黒い壺のような影が見えないことはないが、それを棺と断定できるかといえば難しい。いちおうこの説は否定された(むしろ今なおペンディング状態というべきかもしれないが)。
しかしその程度で、機構のシュルレアリスト、ダリが怯(ひる)むはずもない。自ら「パラノイア的」と言いつつ、さらに『晩鐘』論を進めてゆく。曰(いわ)く――
女のこの姿勢は「拝(おが)み虫」の別名を持つカマキリが攻撃食前のものと同じである。彼女は仮面をかぶり(事実、そう見えるから驚きだ!)、男に飛びかかろうとしている。男は彼女の息子で、母の抗しがたい魅力に半ば死んだような状態(どっしりして実在感満点の女に対し、痩せすぎの男の下半神のぺらぺら感に改めて気づかされる)になっている。彼はこれから起こることを予期し、エロティックな期待で恍惚となり、すでに勃起(ぼっき)しているため帽子で前を隠している。同時にまた彼は、雌カマキリが交尾のあと雄カマキリを頭からがりがり喰い尽すことも知っているので、恐怖に身をすくませている・・・・。
      ・
いや、存外、「ミレーは19世紀におけるもっとも矛盾した画家のひとり」というダリの言葉は正しいのかもしれない。あまり知られていないが、ミレーは農民画家になる以前、「女性の裸しか描かない画家」と見なされていた。それもエロティックな、時にポルノそのものの絵を描いていた(バルビゾンへ移住した後もまだ描いていたといわれる)。売れないと知りつつ農民の真実の姿だけを描き続けた、というのはゴッホの(いや、多くの人々の)誤解である。自らの農地を耕していたというに至っては、先入観からくる思い込みだ(妻が家庭菜園をしていただけ)。貧窮していたというが、それも9人もいた子どもが小さい頃までの話で、死ぬまで赤貧(せきひん)洗うが如しだったゴッホとは違う。40代後半からは画商と高額で3年契約をしたり、浮世絵の収集をしたり、レジオン・ドヌール賞を受賞したりもしている。
ゴッホといいダリといい、どこか異常性を秘めた画家の心をかき乱す何かが、ミレーの静謐(せいひつ)な画面に埋もれてくるのだろうか? その意味からもミレー像の修正が必要であろう。
ミレーはほんとうに怖い絵も描いている。『死と樵(きこり)』だ。

                                    • -

どうでもいい、じじぃの日記。
去年、NHK 「『怖い絵』で人間を読む」を観た。
怖い絵といっても、絵にまつわる背景を説明してもらわないと、何が怖いのか分からない。
あの有名なミレーの『晩鐘』のどこが怖いというのだろうか。
図書館から借りてきた中野京子著 『怖い絵 2』にミレーの『晩鐘』のことが書いている。
多くの画家がそうであるように、ミレーも女の裸を描いていた。
農民画家と知られるミレーが女の裸を描いていたとても不思議じゃない。
ミレーの『晩鐘』の絵だって、数あるミレーの農村風景を描いた作品の1つの作品に過ぎないじゃないか。
スペインの画家のサルバドール・ダリはミレーの『晩鐘』の絵を見て言った。
「女の足もとに置かれて手籠を不自然と感じる。最初は籠ではなく、小さな棺(ひつぎ)を描いたのではないか。つまりこれは1日の終りを感謝する祈りではなく、亡き子を土に埋めた後、母は祈り、父は泣いている情景だった。ところが誰かに忠告されたか、ミレー本人の気が変わったかして最終的にこのような形に変更したのではないか」
ミレーの作品には『死と樵(きこり)』というのもある。死神を描いたものだ。
じじぃには、ミレーは大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いた画家のようにみえる。
天才画家ダリが見れば、ミレーの作品はまったく違ったものにみえるのかもしれない。