じじぃの「人の死にざま_215_谷内・六」

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谷内六郎
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谷内六郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
谷内六郎は日本の画家。
東京都出身。駒沢尋常高等小学校卒業の後、見習い工員などをしながら絵を独学で学んだ。
戦後、漫画仲間の鈴木善太郎、片寄貢と銀座の街頭で街頭漫画を描く。また1945年12月に創刊された左翼系の新聞「民報」に『真実一郎君』を連載し、人気を博す。
1955年、『おとなの絵本』で文藝春秋漫画賞を受賞。
翌1956年の「週刊新潮」の創刊号から表紙の画家として登場、古きよき日本への郷愁をさそう独特の画風で人気を集めた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
谷内六郎 (1921-1981) 59歳で死亡。
幼時ひどい喘息(ぜんそく)に悩まされ、成年に達してからも神経障害、不眠症などの症状に苦しんで、谷内六郎の腕は注射のためにケロイド状になっているほどであった。達子(みちこ)夫人はいう。「主人の人生は一日としてお医者さんにかからない日はありませんでした」
昭和30年、文藝春秋の第一回漫画賞を受賞した谷内は、この光栄に仰天してナイフで自分の左腕をメチャメチャに傷つけて自殺を計るという事件を起こしたが、しかし翌31年に創刊された「週刊新潮」の表紙絵に起用され、病める身心をもって、以来25年間にわたり、同誌に郷愁にみちた童画風の表紙を描きつづけた。
多くのフアンを持ちながらその間彼は、間歇的に何度か自信喪失におちいり、強度のノイローゼ症状を起こしたが、昭和55年暮れからまたひどい不眠症におちいり、順天堂精神医学研究所付属越ヶ谷病院に入院した。しかし翌年1月14日に退院した。
22日にまた病院を訪れ「まだ十分だとは思わないが、ぼちぼち身体をならしながらやってゆきます」といい、2週間分の睡眠薬をもらって帰った。その夜谷内は午後8時ごろ床についた。23日の夜明け前、起きて出ていった谷内はやがて寝室に戻って来て、「ちょっと一服して来たよ」と夫人にいって、また蒲団にもぐりこんだ。
午前7時ごろ目覚めた夫人は、隣りの夫の異変に気づき、救急車と医者を呼んだが、それらが到着したとき谷内はすでに息をひきとっていた。
死因は急性心不全ということになったが、台所のテーブルの上には、数日分の睡眠薬の包みがからになって残っていた。(「週刊新潮」昭和56年2月5日号より要約)

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