じじぃの「クールジャパンの元祖・手塚治虫・ジャングル大帝・火の鳥!知の巨人たち」

ジャングル大帝 最終回 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/xqdgat_%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D-%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%9B%9E_shortfilms
鉄腕アトム(1963) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KGq6z1mEU9Q
ラストメッセージ」 漫画家 手塚治虫 最後の講演 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oFoPJj8SFmA

手塚治虫 作品のキャラクターたち

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 「第8回 手筭治虫」 2015年1月31日 NHK Eテレ
クールジャパンの筆頭、漫画とアニメ。その扉を切り開いた手筭治虫。
敗戦直後17歳の若さで漫画家としてデビュー。得意としたのは長編のストーリー漫画。手筭は、生命の尊さや科学技術への疑問など、深くて重いテーマを表現するジャンルにまで漫画を高めようとした。藤子不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫ら後継者が輩出し、世界に類のない漫画文化が築かれていく。昭和38年、わが国初のTVアニメ『鉄腕アトム』を制作。それが大ヒットすると後を追ってアニメ番組が量産され、演出の手法も飛躍的に進歩した。しかし、アニメ制作での赤字が膨らんで自分の会社を倒産させてしまう。「手筭の漫画は古い。もう終わった」と言われた時期もあった。それでも創作への情熱を失わず、独自の生命観や未来像を描き続けた。
番組では、漫画家の松本零士さん、萩尾望都さん、かつて手筭担当の編集者だったスタジオジブリ代表の鈴木敏夫さん、哲学者の梅原猛さん、手筭の実弟の手塚浩さんらの証言で見つめていく。
http://www.nhk.or.jp/postwar/program/schedule/
どうでもいい、じじぃの日記。
1/31、NHKEテレ 『戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか』で「知の巨人たち 手筭治虫」を観た。
こんなことを言っていた。
昭和3年、手筭治虫は大阪で生まれる。
自宅の裏にあった森もわずかに残っている。
弟の浩、「自然の風景にひたるというのが治虫は好きだった。何十分も森にいた。カブトムシ、カナブンが集まる場所が好きだった」
昭和20年、大阪に断続的な空襲。
手塚、「もう俺は死ぬんじゃないかと思いながら、逃げ回った。人間のちぎれた手や足や首が転がっていた。これは夢なんじゃないかと思った。医者になれば徴兵をまぬがれると思った。しかし大学に入学すると終戦。自分が生き残れて良かったと思った。その時点から『生きること』『生命』にすごく魅力感じているんです」
昭和21年、漫画家大阪ときを 月刊漫画雑誌「まんがマン」を創刊。
大阪ときを、「線がやわらかい。色々な角度で描いている。戦中戦後で違った感じがした。モダンな感じがした。漫画の話で3時間も4時間もしゃべっていました」
新宝島』を18歳で描く。新宝島は全国で40万部売れたと言われている。
阪大医学部で、顕微鏡で「細胞」を覗く映像が出てきた。
手塚、「お前は漫画家になれ。漫画で子供の心の病気を治せと教授に言われた」
SF3部作が当時の代表。その1つ、『メトロポリス』。人工細胞で作られたミッチーの話。
手塚、「自分で自慢できるものといえばアンハッピーエンドだ。おそらく人間も発達しすぎた科学でやがて自ら滅びるのではないだろうか」
昭和27年、東京に来る。『鉄腕アトム』が月刊誌「少年」に連載される。翌年トキワ荘に入る。
赤塚不二夫、「手塚先生は漫画の神様。その先生に、りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい、と言われた」
昭和29年、祖師谷のアパートに引っ越す。
ジャングル大帝』のラスト。
雪山で遭難するヒゲオヤジとレオ。ヒゲオヤジに自分を殺させ、皮と肉をヒゲオヤジに与える。
萩尾望都、「悲しい結末も意味があってその結末を引き出してる。そして最後にはどこに帰るか感じるんです」
手塚、「何代も何代も生命は繰り返されるが、自然は変わらない」
福岡で仕事した際、手塚のアシスタントをしていた松本霊士、「偉大な先輩はありがたい。次に出ていく者は新しい世界を構築しなきゃならない。出会いに感謝しています」
戦争中に作られたアニメ『桃太郎 海の神兵』。
手塚、「あまりに衝撃を受けてどういう方法でもいいから長編アニメ映画を作りたいと思った」
昭和36年、32歳で「虫プロ」を設立した。
昭和38年、1月1日 アニメ 鉄腕アトムの放送開始。スタッフは徹夜で作業。
鈴木俊夫、「アニメーションとしては手抜きが多かった。それがかなり広がった。それをまた、ちゃんとやろうとしたのが宮崎駿高畑勲だった」
手塚、「アニメを雲の上から引きずりおろして、少ない枚数で少ない人数で作る楽しさをほじくり出してみた」
放送開始から1年半で手塚の原作は底をついた。
SF作家 豊田有恒がアニメオリジナルストーリー展開をすることになった。
しかし、アトムは放送を重ねていくうちに単純なヒーローになる。
手塚、「アトムはすでにぼくの息子ではなかった」
アトムの最終回。アトムは太陽に飛び込み死ぬ。
昭和48年、週刊少年チャンピオンで『ブラック・ジャック』が始まる。
ブラックジャックは数回の予定だったものが、10年続くほどの人気漫画となった。
石の森章太郎、「どっかで人間を信用してないんじゃないかな。影があるんですよ。それが好きなんです」
火の鳥』は30年以上描き続けたシリーズ。
梅原猛、「私は手塚さんというのは宇宙人のような気がして。宇宙人はそう長い間、地球にとどまれないんだという気がする。残した思想は一種の宇宙的な思想を漫画で語った人だ。私はちょっと底知れないような思想家だったという気がつくづくしてしまう」
平成元年2月9日、手筭治虫 胃がんで死去。享年60歳。