じじぃの「人の死にざま_1483_オスカー・シンドラー」

Schindler's List - Official Trailer [HD] 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JdRGC-w9syA
アウシュビッツ強制収容所

オスカー・シンドラー ウィキペディアWikipedia)より
オスカー・シンドラー(Oskar Schindler、1908年4月28日 - 1974年10月9日)は、メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテン・ドイツ人の実業家。第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った。

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『世界史映画教室』 家長知史/著 岩波書店 1997年発行
シンドラーのリスト 1993年 アメリ (一部抜粋しています)
1939年ナチス・ドイツポーランド侵入とともに、ポーランド南西部の古都クラクフに一人の男がやってきました。
彼の名前はオスカー・シンドラーシンドラーはセールスマン時代にナチスに入党し、やがてドイツ諜報部おメンバーとなりました。そしていま、第二次世界大戦の開始とともにクラクフに彼が現れたのは、事業を始めるためでした。「シンドラーのリスト」は、このしたたかで一癖も二癖もあるナチス党員の実業家が、迫害されるユダヤ人たちとどのように向き合い、行動したかを描いています。同時に映画は、ナチス支配下ユダヤ人がどのような状態に追いつめられていたかをたいへんリアルに、なまなましく描き出しています。これらは史実や関係者の証言にもとづいて再現されたものです。まずはドラマの流れをたどってみましょう。
開戦とともにクラクフにやってきたオスカー・シンドラーリーアム・ニーソン)は、この街で一旗揚げようという野心を持っていました。彼は金と話術を巧みに使ってドイツ軍の上層部に取り入り、さらにユダヤ人会計士イツァーク・シュテルン(ベン・キングスレー)をパートナーとして選び、倒産した工場を入手すると、軍用のほうろうの容器工場の経営に乗り出しました。
1941年に入るとユダヤ人たちは家を追われ、ゲットーで暮らすことを強制されました。シュテルンはゲットーのユダヤ人たちを無償の労働力としてシンドラーの工場に集め、工場はこうしたユダヤ人の労働力に支えられて軌道に乗りました。しかし、1943年に入ってゲットーは解体、ユダヤ人は郊外のプワシュフ強制収容所に入れられることのなりました。
収容所の所長として着任したアーモン・ゲート(レイフ・ファインズ)は、気まぐれにライフルでユダヤ人を狙い撃ちする残虐な男でした。シンドラーはゲートと接触し、生産効率の向上を名目として、自分の工場の敷地内にプワシュフ収容所に付属する私設収容所を作りたいという意向を伝え、シンドラーの収容所が実現します。シュテルンの動きもあって、ユダヤ人の間ではシンドラーの工場にいる限り殺されることはないという評判がささやかれ、彼の工場で働きたいと願う人びとの密かな動きがしだいに目立ってきました。この事態にシンドラーは身の危険を感じ、とまどいますが、シュテルンを怒りつけながらも、ユダヤ人を受け入れていくのでした。
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シンドラーのリスト」を見た高校生は、どのように映画と対話をしたのでしょうか。
「胸に焼きついたシーンがたくさんあった。……中でも一番消えないのは、(シンドラーの工場のユダヤ人が)間違ってアウシュビッツへ送られた時、ヘレンが見た男の子の『首を切る』ジェスチャーだ。あの後に起こった出来事を私ははらはらしながら見つめていた。ユダヤ人になったり、ドイツ人になったり、時には映画を見ている私に戻ったりしながら。……「救われてよかった」と私は思った。でもその後のシンドラーの「もっと救えたのに」という言葉で、私は当たり前のことにようやく気がついた。シンドラーが救った千百人の他に殺されたユダヤ人はもっともっといたのだ。何百万人ものユダヤ人が犬のように殺されたのだ。映画を見ながら私の頭は反転していた。戦争というものは何よりも生存権を無視し切った行為であるということにも改めて気づいた。……不勉強だったと思う。これから自主的に、少しずつでも勉強していきたい」