じじぃの「人の死にざま_1084_花森・安治」

花森安治 - あのひと検索 SPYSEE
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花森安治の装釘世界 Les couvertures variees qu'un artisan Yasuji Hanamori dessinees... 動画 YouTube
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くらしとデザイン『暮しの手帖花森安治の世界 動画 YouTube
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暮しの手帖 Google 検索
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花森安治 ウィキペディアWikipedia)より
花森安治は日本の編集者、グラフィックデザイナー、ジャーナリスト。生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者として、その名を知られる。
【生涯】
兵庫県神戸市に生まれる。
彼は終戦後の1946年、編集者・画家の大橋鎮子(社長)と共に衣装研究所を設立し、雑誌『スタイルブック』を創刊した。そして1948年に、生活雑誌『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊する。1951年には、暮しの手帖社と改称。『暮しの手帖』は生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌で、中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せない、という理念の元に今日まで発行されている。編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死の2日前まで第一線で編集に当たった。なお『暮しの手帖』の表紙画は、創刊号から死の直前に発行された第2世紀52号まで、全て花森の手によるものである。
豪放な性格、反骨精神と奇矯ながら、真摯な行動でも知られ、数々の逸話を残す。おかっぱ頭やスカート姿を貫いたのもその一端である。
1972年には著書『一銭(正しくは金を略した字)五厘の旗』で第23回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞。また同年『暮しの手帖』の活動によりラモン・マグサイサイ賞を受賞。
1978年、心筋梗塞により逝去。
暮しの手帖 ウィキペディアWikipedia)より
暮しの手帖は、日本の家庭向け総合生活雑誌。しばしば「暮らしの〜」「〜手帳」と誤記されるが、「暮しの手帖」が正式な雑誌名。隔月刊。発行は東京都新宿区北新宿にある暮しの手帖社(かつては港区麻布に所在していた)。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
花森安治(はなもりやすじ) (1911 - 1978) 67歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和23年、37歳のとき「暮らしの手帖」という独創的な雑誌を生み出した花森安治は、58のとき最初の心臓発作を起し、それ以来煙草を絶ち、糖分を控え、高血圧と心臓病に挟撃されながら働いた。しかし、美食癖と健啖ぶりはどうにもならなかった。
昭和52年11月、みずから8ミリカメラを持って隅田川から荒川へ撮影に出かけて風邪をひき、それをこじらせて入院する羽目になった。
翌53年の正月は南麻布の自宅で過ごすことが出来るようになり、1月13日の夜も居間でくつろいでいたが、突然心臓発作を起し、夫人に背中をさでさすってもらっているうち、痛みは去った。が、14ひ午前1時過ぎ、先に寝た夫人がふたたび居間をのぞいてみると、彼はソファの上で死んでいた。
告別式は彼の意を体して、暮しの手帖研究室で、デスクに白布をかけただけの祭壇に、遺影と骨壺のみが安置され、花で埋められたほかには、線香も榊(さかき)も神父の影もなかった。

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