じじぃの「人の死にざま_207_W・ライト」

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ライト兄弟フライヤー一号機の飛行 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=RQ_Qj1TwyhQ
ライト兄弟 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ライト兄弟は、飛行機の発明者で世界初の飛行機パイロット。世界最先端のグライダーパイロットでもあった。自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、1903年に世界初の飛行機の発明を果たす。
【科学的に不可能】
ライト兄弟は実験に成功したが、当初社会はこれを信用をしないばかりかこぞって反発さえしていた。 サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍、ジョン・ホプキンス大学の数学と天文学の教授サイモン・ニューカムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞等でライト兄弟の試みに「機械が飛ぶことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
ウィルバー・ライト (1867-1912) 45歳で死亡 【執筆者】松村崇夫 (一部抜粋しています)
あて先は「日本国陸軍大臣殿」。タイプで打たれた手紙には「ライト自転車紹介、オハイオ州デイトン」のレターヘッドがある。1906年4月14日の日付だ。
「われわれは時速48キロ以上で人を運ぶフライヤーを提供できる」
「購入してくれれば関係者1人の訓練をする」
「政府が指名する技術者に飛行データを提供する」−−
フライヤーは「空飛ぶ機械」だ。エアプレーン(飛行機)という言葉はまだなかった。
これに対する日本軍部からの回答文書は、ワシントンの議会図書館にあった。桜の花の浮き出し印が入った便箋に英文のペン書きだ。
「軍事用に適した飛行機械を提供できるとの手紙を拝受しました。しかしわが国では今のところ、そのような機械は必要はありません」
署名は「陸軍省副官、K・タチバナ」とある。「初公開の文書だと思いますよ」と、議会図書館の研究員がいった。
「、K・タチバナ」は、駐米公使館付などを経験し、その後関東軍司令官になった立花小一郎と見られる。当時は陸軍省の高級副官だった。
ライト兄弟が初飛行に成功すると、話を聞きつけた英陸軍が接触してきた。兄弟は断る。「わが母国が先だ」ということだったようだ。しかし、米軍は相手にもしなかった。
当時、科学者が多額の政府資金で飛行機の開発に取り組んだが、成果は上がっていなかった。
「国の代表的な科学者でさえ成功していない。それなのに田舎の若者が実用機を完成させただと?」
そんな雰囲気だったようだ。兄弟は、開発資金をねらった山師かぺてん師と見られたらしい。
ライト研究の権威、スミソニアン航空宇宙博物館航空学部門のトム・クラウチ部長はいう。
「母国から冷たくあしらわれた兄弟は、ドイツやイタリア、日本に目を向けた。当時の日本は日露戦争に勝ち、世界の耳目を引きつけていましたから」
兄弟がデイトンで自転車屋を始めたのは1892年。ウィルバー25歳、弟オービル21歳だった。販売と修理だけでは満足できず、部品を組み替えて何種類かの自転車をつくり、売り出している。
自転車は時代に先端を行くモダンな乗り物だった。労働者の年間所得が400ドルちょっとの時代に、兄弟は年に3000ドルもの収入をあげている。自転車屋は大繁盛だった。
しかし、自転車屋が忙しいのは春から初夏まで。ひまな時期に仕事場で始めたのが飛行機づくりだった。
父ミルトンはプロテスタントの教会の牧師だった。ウイルバーは3男、オービル4男だ。
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2人の飛行機が空を飛んだのは1903年12月17日。挑戦を始めてから4年目だった。
機体は全長6.4メートル、翼長12.3メートル、重さ274キロ。機体はハリモミなどの木で、複葉の主翼にはモスリンが張られていた。
乗る順番はコインで決め、当日はオービルの番だった。機体に腹ばいになる。エンジンがうなり、ガソリンが飛び散る。左手で昇降舵を握り、右手にストップウオッチ。
4回飛んだ。1回目は12秒、36メートル。4回目はウイルバーで59秒、256メートルだった。
兄弟は火鉱の成功を新聞社に連絡する。しかし、扱いはさんざんだった。ある社は「59秒? 何だ、それだけか」とボツにした。マスコミには、その59秒の値打ちが分からなかった。
翌年から、デイトン郊外の牧場で実用開発に入る。
性能は向上した。2年後には滞空時間39分23秒、距離38.96キロを記録している。日本に売り込みを測ったのはこの後だった。
初飛行から5年がたった1908年、兄弟の名前はフランスで有名になった。ルマンで公開飛行をしたのである。
ウイルバーが客を乗せて操縦した。100回以上飛び、約60人を乗せている。滞空時間2時間20分、125キロを飛ぶ記録もうち立てた。ミシュランが出した賞金2万フランを手にいれる。決定的だった。
念願の特許が認められたのは1906年5月。米陸軍との契約が2年後に成立する。当時の金で2万5000ドルだった。フランスの企業とも契約した。
機械いじりの好きな弟と商売っ気のある兄はいいコンビだった。ウイルバーは、「オービルと私は幼いときからともに暮らし、ともに遊び、ともに考えた」と書いている。
特許にこだわり、ライバルを次々に訴えた。訴訟は世界中に及んだ。「彼らは裁判で有名になったのだ」という人までいた。2人とも独身を通した。理由を聞かれたウイルバーは「飛行機と女性は両立しないから」と答えている。
初飛行から9年後の12年、ウイルバーは45歳で死んだ。直接の死因は腸チフスだったが、本当は訴訟疲れだったともいわれている。
ウイルバーの死後、オービルはあっさりと会社を手放した。クラウチ部長は「もっと違った機械いじりをしたかったのでしょう」という。

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