じじぃの「人の死にざま_172_力道山」

金信洛 - あのひと検索 SPYSEE
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力道山VSデストロイヤー 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=NUxszlyXFUc
昭和 僕の芸能私史 永六輔/著 朝日新聞社 1999年発行
昭和38(1963)年  刺されても酒を飲んだ力道山 (一部抜粋しています)
この年「こんにちは赤ちゃん」のヒットしていた。
昭和天皇が、浩宮に歌いかけているという話を入江侍従長から訊いた時、中村八大が「宮内庁御用達作曲家」といって笑った。
歌手デビューしたのは梓みちよ
「私がママよ」と歌った時、この国ではまだママは「洒落た家庭」か「バー」でしか使われていなかった。
銀座のバーで「こんにちはお客さま、私がママよ」と流行したほどである。
今でこそ、パパ・ママは日本語としての市民権を持っているが、この年では「横文字」だった。
少女のような梓みちよがママの歌でヒットしたのは不思議だったが、舟木一夫は高校3年生そのものだった。
舟木は今でも学生服で「高校3年生」を歌い続けて不思議ではないところが不思議であり、作詞の丘灯至夫さんも80歳を過ぎて高校生のような熱血漢である。
さてこの年の暮れ、プロレスラー力道山が刺されて亡くなった。致命傷だったのに酒を呑み続け、「俺は死なない」と言いながら死んだという話が悲しかった。
彼が力士から転向して、ハワイでプロレス修業したときの師匠が、わが家の檀家だった縁で、つきあいが始まり、リングで負傷したミスター珍を預かったりした。
ミスター珍は「夢で逢いましょう」のレギュラーになって、ナンセンスギャグを一手に引き受けてくれた。
コンクリートの壁に激突したり、セットの下敷きになったり、その身体で勝負し、健康を取り戻してから再びリングに戻り、先年亡くなるまで現役だった。
アラン・ドロンが番組のゲストになったのも、この年で、世界的なスターがゲストになるというのでマスコミが殺到した。
(今は向こうから売り込みにくる)
力道山が刺されて亡くなる3週間ほど前にケネディ大統領が撃たれて亡くなり、日米間衛星放送初のビッグニュースになって世界中に知らされた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
力道山 (1924-1963) 39歳で死亡。
韓国名金信洛(キムシルラク)−−力道山は、昭和20年代の終りから30年代の終りにかけて、リングの上で空手(からて)チョップをふるい、日本の子供たちの英雄となったが、ただ、リング上のプロレスラーとしてだけではなく、興業師としても辣腕(らつわん)をふるい、リキ・スポーツパレス、クラブ・リキ、リキ・アパ−トメントなどを経営する実業界の英雄ともなった。
しかし性格は凶暴で、少しでも不満があるとリング外でも傍人に空手チョップを見舞い、「力道山またあばれる」と、しばしば新聞にニュースだねを提供した。
昭和38年1月、彼は韓国に飛んで「韓国の英雄」として迎えられ。6月にはホテル・オークラで朝野の名士1800人を迎え、21歳の元日航国際線のスチュワーデス、日本娘の田中敬子と豪華な結婚式をあげた。
12月8日夜、彼は赤坂山王下のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で飲み、泥酔し、トイレにいってその前で、チンピラやくざに足を踏まれたと因縁をつけ、逆に匕首(あいくち)で左腹部を刺された。興業問題にからんでの争いという説もある。
すぐに山王病院の応急手当室に運ばれたが、手術する外科部長が来るまで、部屋にあった医療器具をつかんでは投げつけるという荒れようであった。
小腸にまで達する負傷の手術は成功したが、その翌日から、お茶を飲ませろ、水を飲ませろと騒ぎたて、まわりの人間がそれを抑えきれず与えたためか腹膜炎を引き起こし、12月15日夜、急に容態悪化して絶命した。
力道山はプロレス10年で、当時の金で20億円稼いだといわれるが、彼の死後3年でそのすべては消滅した。

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【次代への名言】わが道を往く編(20) 2010.4.11 MSN産経ニュース
「人間生まれたときははだかだ。失敗してはだかになっても、もとにかえるだけじゃないか」力道山
不世出のプロレスラー、力道山。語り手によって陰陽さまざまな顔を見せる人である。冒頭は、その急逝の1年ほど前に出版された自伝『空手チョップ世界を行く』から。「そうだったら生きている間に、思ったことをなんでもやったらいいじゃないか」と続けられる。
生年は、大正11(1922)年、13年と諸説ある。ただ、彼が朝鮮半島咸鏡南道で米屋を営む金家に生まれたことは確かなようだ。当時、そこは「日本」だったが、戦後、北朝鮮領となる。「知っていたか? それでもいいか」。死の半年前に結婚した敬子さんに彼は尋ねた。その姿は「父は外見に似ず、根は細心で神経質な寂しがりやだった」という、次男の百田光雄さんの回想記に一致する。
そんな力道山を、北朝鮮・金政権に忠実な“愛国者”にまつりあげようとする動きがある。しかし百田さんは、「父の国籍は終始日本にあった。父にとっては日本も生まれ故郷も同じ祖国だった」と記す。また、作家、牛島秀彦さんの『力道山』によると、名レフェリーだったユセフ・トルコさんはこう語っている。
「リキさんも君が代聴いたり、日の丸見たら感動してたよ。お互いに大和魂があるもん」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100411/acd1004110300003-n1.htm
力道山 Google 検索
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&ei=d6taS9e9ENGIkAXfodGfAg&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=5&ved=0CC4QsAQwBA