じじぃの「人の生きざま_48_アントニオ・猪木」

アントニオ猪木 - あのひと検索 SPYSEE
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アントニオ猪木 VS モハメド・アリ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=x6pSPIS5twI
アントニオ猪木 ウィキペディアWikipedia) より
アントニオ猪木(1943年2月20日 - )は、神奈川県横浜市鶴見区出身の元プロレスラー、経営者(新日本プロレス設立、イノキ・ゲノム・フェデレーション設立など)元参議院議員、事業家。本名は猪木寛至。血液型AB型。キャッチフレーズは「燃える闘魂」。愛称は「アントン」。
新日本プロレス創業や、異種格闘技戦の実施で日本のプロレス・格闘技史上最も影響を与えた存在の一人である。2010年WWE殿堂入り。
【プロフィール】
12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サントス港を経由してサンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。
ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場で過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていた。1年半の契約があり逃げることはできなかった。あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。猪木の精神力と基礎体力はこのブラジルでの生活で強く培われた。
幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」と呼ばれていた程であったが、ブラジルへ移住してからは陸上競技選手として砲丸投げなどで活躍し、その身体能力を発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。その後現地の陸上競技大会の砲丸投げに出場して優勝。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。
1960年4月11日にサンパウロで興業を行っていた力道山から「日本に行くぞ」と直接スカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという(後日談であるが、猪木の肉体は全盛期のルー・テーズにそっくりだったため、力道山もそこに目を付けた。デビュー後に外国人トレーナーからもオファーが殺到したと言う)。
1960年9月30日、東京都台東区台東区体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗戦)。デビューはジャイアント馬場と同日である。この時は本名の猪木寛至でデビュー戦のリングに上がった。
なお、『アントニオ猪木』というリングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単に「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するため洋風な名前にされたという節もある。
馬場とのタッグ・BI砲としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始すると日本テレビとの取り決めで、馬場の試合が日本テレビの独占とされた関係上、NETの日本プロレス中継のエースという格になり、UNヘビー級王座を獲得した。また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。
しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決はタブーになっていた)ことや日本プロレス経理が不透明であったことなど日本プロレスとの度重なる確執から1971年に追放処分を受ける(詳細については上田馬之助 (プロレスラー)#密告事件を参照)。また、同年11月、女優の倍賞美津子と結婚した(1987年に離婚)。
1972年1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなど外国人エースを育成した。
さらに、WWFと提携してからは多数の外国人スターを呼べるようになり、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博し、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。
新日本プロレスにおいて、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」というストロングスタイルを標榜。その後のプロレスのスタイルに大きな影響を与える。最強の証明のため、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け後年の総合格闘技の礎を築いた。
中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本ではそのアリ戦は昼間の生中継と、同日のゴールデンタイム19時からNETテレビ(現テレビ朝日)にて録画中継という形で2度放送された。
1989年2月22日、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。
同年には「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙にも比例区から99万3989票を集めて初当選(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい“逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできないことをやる」と宣言した。
1995年の参議院選挙で落選。
2005年11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。

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文藝春秋 2010年12月号
「安保と青春・されどわれらが1960」
アントニオ猪木 −−師・力道山の空手チョップは反米の怒り (一部抜粋しています)
力道山との出会いは偶然ではなく、必然だったと思っています。私は中学から砲丸投げをやっていて、全ブラジル陸上競技大会に出場しました。得意の砲丸投げでなく、円盤投げで大会新記録をつくったことを力道山は知っていて、2回目のブラジル遠征のときに私を探してくれたのです。私は日本にいたときからずっとプロレスラーになりたいという気持ちが強かった、だから、力道山とは巡り会うべくして巡り会った、そんな思いでしたね。
サンパウロのホテルに呼ばれて対面した力道山から「裸になれ」と言われて上着を脱ぎ、次は「背中を見せろ」、最後は「日本に行くぞ」でした。それで合格。私は人一倍、体が大きかったし、コーヒー園で朝から晩まで働いて培った身体だったので、プロレスでやっていく自信はもちろんありました。
力道山に会って1週間で日本に行くことになりました。ブラジルの空港で新聞記者の取材を受けた力道山が私を指さして「彼を3年でみんなの元へ返す」と言うわけですよ。わずか3年で一流レスラーに育ててブラジルに凱旋させるという意味で、その言葉はしばらく私のなかでプレッシャーでした。
14歳でブラジルに渡ったので日本は3年ぶり。だけど、明けても暮れても激しいトレーニングばかりで感慨に浸る暇もない。ヒンズースクワットばかりを延々とやらされてきつかったのですが、ブラジルでも苛酷な労働を思えば逃げ出そうと考えたことなんで一度もありません。沖識名さんや大坪清隆さん、それに吉村道明さんたち先輩には厳しく育てられました。今と違って殴られるのは当たり前の時代。竹刀や木刀、ビール瓶で叩かれたこともあった。でも気を入れて受けると逆に木刀のほうが折れてましたけどね。
普通、新弟子は地方巡業に行けないのですが、私は力道山の付け人になって、幸運にも地方を回って試合を見ることができました。力道山のことを私は「先生」と呼んでいましたが、のちには「オヤジ」と呼んだこともあります。
当時の力道山はゴルフに夢中で、付け人の私も「紳士のスポーツだから背広を着て来い」とボール拾いに呼ばれました。ゴルフボールの値段が凄く高かった頃で、背広姿の私はOBのボールを草藪に探しにいって、ぬかるみに入って蛇がビューッと出てきたこともありました。せっかくの一張羅が汚れてしまって、台無しでしたよ(笑)。
力道山にはとにかくよく殴られました。期待されていることは後に分かるのですが、この当時は温かい言葉なんて掛けてもらったことがない。どうしてこんなに殴られるのか、その意味が分からなかった。
力道山は私に何を伝えようとしていたのか。後に、自分なりに解釈するとやっぱり"闘魂"なんです。力道山の空手チョップは誰にも真似できない。それは民族の怒りであったり、その怒りのエネルギーが空手チョップの迫力を生み出していました。まあ、普段は怖い人でしたけど、100万ドルの笑顔をいうか、あの落差が何とも言えない魅力ではありました。
デビュー戦はジャイアント馬場さんと同じ9月30日でした。私の相手は、若手で一番強かった大木金太郎さん。どんな試合内容だったか覚えていません。無我夢中で戦い、負けてしまったというぐらいの記憶です。
馬場さんとは同期といっても私のほうが5歳下だったので、私にライバルという意識はありませんでした。私がアメリカ武者修業を終えて帰国したあたりから、周りがそういう風に見ることになります。ただ、力道山から流れを汲む本家本流は全日本プロレスを立ち上げた馬場さんのほうでしょうけど、"闘魂"の血はこの猪木のほうに流れているんだと自負しています。
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強くなりたい−−その一心でいた17歳の多感な青春時代でした。

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