じじぃの「人の死にざま_364_寺山・修司」

寺山修司 - あのひと検索 SPYSEE
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死者田園祭 (田園に死す) 預告 動画 YouTube
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寺山修司 ウィキペディアWikipedia)より
寺山修司は、日本の詩人、歌人俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家など。演劇実験室・天井桟敷主宰。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」とかえすのが常だった。
言葉の錬金術師の異名をとり、膨大な量の文芸作品(小説・エッセイ・評論・戯曲・シナリオなど)を発表。その一方で、映画・演劇なども幅広く手掛けた。競馬への造詣も深く、『ユリシーズ』(船橋競馬場所属)という競走馬の馬主になるほど。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
【生涯】
・父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。父・八郎は当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。
・1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。山田太一とは同級。在学中から早稲田大学短歌会などにて歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。混合性腎臓炎で立川の病院に入院。
・1958年(昭和33年)第一歌集『空には本』が出版される。退院。また、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎大江健三郎浅利慶太永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
・1967年(昭和42年)1月1日演劇実験室・天井桟敷を結成。4月18日草月アートセンターで旗揚げ公演。演し物は『青森県のせむし男』。6月新宿末広亭で第二回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第三回公演『毛皮のマリー』。3月評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される。劇作家・詩人・歌人・演出家として活躍。
・1982年(昭和57年)朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演『奴婢訓』。
・1983年(昭和58年)東京都杉並区永福在住中、河北総合病院に肝硬変のため入院。腹膜炎を併発し、敗血症で死去。47歳没。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
5月4日−寺山修司 (作家)
まぎれもなく津軽が生んだ昭和の天才だった。詩、短歌、作詞、小説、戯曲、映画、エッセイ、競馬評論とこれだけ多岐にわたって活動した人を私は知らない。
まさにすーぱーマルチ人間だった。それでいて津軽弁をやや気にかけながら朴訥に話す人だった。
私は中央競馬のファンだが競馬入門のきっかけは寺山だった。彼のサラブレッドへの想い入れの強さに感化されたこと大だった。
寺山文学の母胎を為していたのは故郷と母だった。どこまで行っても彼の世界はこのつに突き当たってしまう。
あのインテリジェンス。こぼれるばかりのインテリジェンスを有していた寺山修司、47歳の死は悔しいほどに早過ぎたと思われる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
寺山修司 (1935-1983) 47歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和30、40年代、歌人、詩人、作家、劇作家、評論家、舞台演出家、映画監督と、あらゆるジャンルで前衛的な活躍をして、それぞれの世界でそれなりの衝撃を与えた寺山修司は、昭和57年1月、最後の映画「さらば箱舟」の撮影にはいった。最後の、というのは彼はすでに医者から肝硬変を宣言され、彼自身もスタッフもそれが遺作となることを予知していたからである。
秘書の田中未知は語る。
「健康なスタッフたちでさえ、順次倒れてゆく強行スケジュールの中、寺山の疲労は全身の浮腫(ふしゅ)となってあらわれ、顔には肝臓病特有の色素沈着が生じ、どす黒い土気色となっていた。現場には寝椅子を持ち込み、準備待ちの間は少しでも横になるといった状態の中で撮影は続行され、無事終了出来たのである」
そして12月、主宰する劇団「天井桟敷」公演も行い、そのあと演劇休止宣言をして自宅療養にはいった。
が、翌年4月、急性腹膜炎を併発して、危篤状態で入院した。一時容態は持ち直したが。結局敗血症を起して5月4日午後零時5分に死んだ。
寺山の肝硬変は、青年時、ネフローゼの治療のための血漿(けっしょう)輸血から発した肝炎が、尾をひいた結果であった。
「肝硬変の宣告を受けたとき、何歳まで生きたいか、と先生(医者)に聞かれて、あなたは『60まで』と答えた」
と、かって彼と8年間結婚生活をし、離婚後も「友だち」としてつき合っていた女優の九条映子は語る。
「遺言を残す間もない病状の急変でした。でも、その時間があったとしても、あなたは遺言など残さなかった、そんな気がします。
学生時代、腎ネフローゼで入院した8人部屋から、生きて出られたのはあなたひとり。それ以来、いつも『死』から逃げてました。『死』とかかわるものすべてを恐れていました。生命保険を忌み嫌っていました。人と会うのは大好きで、たくさんのかたがたに親切にしていただきましたが、たとえそうした人たちが亡くなっても、お葬式には決して行こうとしませんでした。
戒名は付けないことにしました。位牌は白木のまま、それがあなたの心に添うものだと思ったからです」
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死後すぐの「週刊読売」昭和58年5月22日号に、彼の絶筆となったエッセイが掲載されたが、タイトルは『墓場まで何マイル?』とあり、文章の末尾には、
「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからといって墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば充分」と、あった。
寺山は「天才」にちがいなかったが、活動があまり多方面に散乱していたために、死後すぐに、それらの影響力はたちまち消えるだろう。せめて残るのは、彼が18歳のときに作った、「マッチ擦(す)るつかのま、海に霧ふかし、見捨てる祖国はありや」以下一連の『チエホフ祭』と題する短歌だけだろうと評された(ただしこれも、他人の俳句を短歌にアレンジした剽窃(ひょうせつ)歌集であるが)。果たして如何(いかん)。
「人間は中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるのだ」
                               −−寺山修司−−

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寺山修司の言葉
「お芝居と同じように、人生にも上手な人と下手な人がいるのよ」
「生が終わって死が始まるのではない。生が終われば死もまた終わってしまうのだ」

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