じじぃの「人の死にざま_413_長塚・節」

長塚節 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E9%95%B7%E5%A1%9A%E7%AF%80/39469/
長塚節
http://www.aozora.gr.jp/cards/000118/files/1745_16941.html
長塚節 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
長塚節は、歌人、小説家。
【経歴】
明治12年(1879年)、茨城県岡田郡国生村(現・常総市国生)の豪農の家に生まれた。
19歳の時に正岡子規の写生説に共感、21歳で子規を直接訪ね、入門、『アララギ』の創刊に携わった。 もっぱら万葉の短歌の研究と作歌にはげんだが、子規の没後もその写生主義を継承した作風を発展させた。また散文の製作もてがけ、写生文を筆頭に数々の小説を『ホトトギス』に掲載。また、長編「土」を『東京朝日新聞』に連載、その代表作となった。農民小説のさきがけの一人として知られ、当時の農村の写実的描写が見事である。
明治45年は喉頭結核を発病、病に苦しみ九州帝国大学医学部の久保猪之吉博士を頼って同病院に入院しで加療したが大正4年(1915年)、九州帝大にて没した。享年37。
正岡子規の正当な後継者であると言われている。

                                    • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
長塚節(ながつかたかし) (1879-1915) 37歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治43年、31歳で『土』を書いた長塚節は、その翌年8月ごろから咽喉に痛みをおぼえ、11月に咽喉結核の診断を受け、捨ておけば余命はあと1年という宣告を受け、衝撃を受けた。
「生き死にも天(あま)のまにまにと平けくおもひたりしは常の時なりき」
    ・
それ以来彼は、翌45年に半年に及ぶ関西九州旅行、翌大正2年も40日余の関西旅行といった風に旅行しはじめ、3年にもその6月から九州へ旅立った。
すでに彼は死を覚悟し、生あるうちに1日でもと思っての旅であったが、これは最後の旅となった。一方で、同じ6月から「アララギ」に、最後の短歌群『鍼(はり)の如く』を発表しはじめていた。
節は9月から福岡の平野屋旅館に宿泊していたが、臥床(がしょう)する日が多くなり、年を越えて大正4年1月早々、九州大学病院隔離病棟に入院したときは、両肺とも上部は空洞状態になっていた。
2月7日夜から昏睡状態に陥り、8日早暁に死んだ。

                                    • -

長塚節 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=Nia2TOXULo6KvgOtqPGTCQ&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCkQsAQwAA&q=%E9%95%B7%E5%A1%9A%E7%AF%80%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1