じじぃの「人の死にざま_595_岡倉・天」

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岡倉天心
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岡倉天心 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
岡倉天心は、明治期に活躍した思想家で文人、哲学者。本名は覚三。
横浜生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、日本美術院の創設者としても著名。近代日本における美学研究の開拓者で、英文著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家養成といった多岐に渡る啓蒙活動を行い、明治以降に於ける日本美術概念の成立に寄与した。
【来歴】
文久2年(1862年)12月26日、福井藩士・岡倉覚右衛門の次男として横浜(生誕の地は現在の開港記念会館)に生まれる。
明治13年1880年)7月、東京大学文学部卒業。11月より文部省に勤務。
明治23年(1890年)、東京美術学校第2代校長(初代は浜尾新)。27歳のこの頃が最も活動がさかんであった。同校での美術教育が特に有名で、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られる。
明治31年(1898年)、東京美術学校を排斥され辞職。同時に連帯辞職した横山らを連れ、日本美術院を上野谷中に発足させる。
明治36年(1904年)、ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に迎えられる。この後は館の美術品を集めるため日本とボストン市を往復することが多くなり、それ以外の期間は茨城県五浦(いづら)のアトリエにいることが多くなり表立った活動は少なくなった。
明治43年(1910年)、ボストン美術館中国・日本美術部長。
大正2年(1913年)9月2日、新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて永眠。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
岡倉天心(おかくらてんしん) (1862-1913) 51歳で死亡。 (一部抜粋しています)
天心は31歳のとき、ひそかに「生涯の予定」なるものを書いた。
「第一、四十歳にして文部大臣となる。第二、五十にして貨殖に志す。五十五歳にして寂(じゃく)す」
神がかりの天心も、しかしおのれの寿命が55までも持たないことを見通すことはできなかった。
彼は晩年糖尿病と痔を病んだ。
大正2年8月7日文部省でひらかれた古社寺保存会の会議中、大量の下血をみたが、苦痛を抑えて法隆寺壁画保存についての建議書草案をかき、帰途、本郷竜岡町の故橋本雅邦宅にころがりこむと、そのまましばらく身動き出来ない状態になった。
2、3日、そこで静養したのち田端の別邸に帰ったが、しきりに新潟県赤倉の山荘にゆきたがるので、16日、家族につき添われて同地に赴いた。
8月24日、突如心臓発作を起こし、視力が急速に衰えた。これは糖尿病によるものと思われる。東京からは妻子、弟の岡倉由三郎、弟子の横山大観、下村観山、河合玉堂ら、そして医者数人が駈けつけたが、29日、腎臓炎から尿毒症を併発した。
危篤が迫っても、頭だけはたしかで、
「これが人間の最期かな」
とか、
「神様、あなたのなさることには感心出来ないことがある」
などつぶやき、また辞世の歌をみなに聞かせた。
「我逝(ゆ)かば花な手向けそ浜千鳥
 呼びかふ声を印にて
 落ち葉に深く埋めてよ
 十二万年明月の夜
 弔(とむら)ひ来ん人を松の影」
天心節(ぶし)ともいうべき彼独特の歌である。
9月2日午前7時30分、絶命した。

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