じじぃの「人の死にざま_820_若山・牧水」

若山牧水 - あのひと検索 SPYSEE
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若山牧水 歌集 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=K4-BU57_fDc
若山牧水の生涯−幾山河に故郷を愛して−1996年製作 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Hrli5wt9MG4&feature=fvwrel
小さな旅 「渓谷へ 〜若山牧水が旅した秩父〜」 1999年1月17日 NHK BS Hi
生涯旅を愛し漂泊の詩人と言われた歌人若山牧水は、未知の山や川に憧れ旅をした。大正時代に秩父を訪れ、豊かな森や川音が響く渓谷に親しんだ。牧水が旅先で詠んだ歌を交えて、秩父の自然と暮らしを訪ねる。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200999901170130171/
若山牧水 ウィキペディアWikipedia) より
若山牧水は、戦前日本の歌人。本名・繁。
【略歴】
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。18歳のとき、号を牧水とする。
1904年(明治37年早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。 1908年(明治41年早稲田大学英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。翌1909年(明治42年)中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。
1911年(明治44年)創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰する。この年、歌人太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。1912年(明治45年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。1913年(大正2年)長男・旅人誕生。その後、2女1男をもうける。
1920年大正9年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住する。大正11年10月、御代田駅より岩村田へ向かい、佐久ホテルに逗留し、数々の作品を残す。
牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。長男・旅人も歌人となり、沼津市若山牧水記念館の初代館長をつとめた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
若山牧水(わかやまぼくすい) (1885-1928) 43歳で死亡。(一部抜粋しています)
牧水は晩年。詩の雑誌を出して大赤字を作り、それにもかかわらず沼津に家を新築したので、その借金のために日本じゅうを揮毫(きごう)して歩かなければならなかった。
 幾山河越えさり行かばさびしさの
  果てなむ国ぞ今日も旅ゆく
「牧水の晩年は、こういうやむを得ざる重荷のために多くの時間を割(さ)かねばならず、ただでさえ積年の酒のために痛めつけられていた肉体は、急速に弱っていった。その疲労を一時的にもやわらげるため、さらに酒を飲むという悪循環がくりかえされ、ついに肝硬変を起こし、これが死の直接の原因となる」(大岡信若山牧水』)
 白玉の歯にしみとほる秋の夜の
  酒はしづかに飲むべかりけり
昭和3年夏、彼は死ぬ20日前も、沼津の家の裏の千本浜で子供たちと一緒に泳いだ。しかし、さすがにその泳ぎは気息奄々(えんえん)といった状態で、得意の片ぬき手も水際から10メートルで終り、そのままがっかりしたようすで家にひきあげてしまった。
「3週刊の後にはもう自分の胃に血が終わろうという衰えのなかで何でそれ程までしてわれわれの仲間に入りにやって来たのだろう?」
と、当時15歳であった子の若山旅人(たびと)はのちに書いている。
「その時の牧水には何かでふと、こども達の若やいだ中に甘えたくなる意図が働いたに違いない。そう言う甘さのようなものは独特の彼の優しさの原点なのだった」
10日ばかりして、9月7日に、牧水は日光浴をしていて、足の裏を砂で火ぶくれにし、歩けなくなり、妻の喜志子の部屋に床をとらせたが、それがそのまま彼の死床となった。肝臓のみならず、酒に起因する胃炎、腸炎口内炎、つまりすべての粘膜の急激な荒廃が彼を襲った。
死の4日前、医者が危険を宣告してから見舞客が集まり、家の中は戦場のようになったが、牧水は泰然と寝たままで、「もっとビールを……」と客に気を使って家人に指図したりした。
しかし、死の3日前になると、子の旅人の前で何かをはらいのけ、「蜘蛛(くも)がいっぱいいて、いやだな」と、つぶやいた。アルコール中毒の幻覚症状であった。
死の前日見舞に訪れた土岐善善麿(ときぜんまろ)が、その閑静な広い家をほめると、牧水はふるえる手で、まばらなあご髯をなでながら、
「いや、君、この家を買う人はないかね。借金もあるしなあ」
と、いった。
そうなっても、彼は酒を求めた。しかも寝たままで、吸飲みで飲んでは酒の味がしないといい、そろそろと抱き起してもらって盃で飲み、「ああこれでこそお酒の味がする」
と、いった。
そして、9月17日朝7時過ぎも五合の酒を飲み、さらに筆にふくませられた酒を、口内炎で真っ白に腫(は)れた唇に塗ってもらい、昇天した。

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