じじぃの「人の死にざま_707_横山・大」

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Hunting "捕る" Taikan Yokoyama《横山大観》どれめ Opening MV 動画 YouTube
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皇室の名宝 日本美の華 動画 YouTube
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横山大観 屈原
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横山大観 生々流転
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横山大観 無我
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八景好いや ―「近江八景」と近代文学
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横山大観 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
横山大観は、戦前の日本の美術家。日本画家。茨城県水戸市出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第一回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山秀麿。
【経歴】
明治元年(1868年)、旧水戸藩藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。翌1889年(明治22年)、東京美術学校に第一期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。
美術院の活動の中で、大観は菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる『朦朧体』という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せはじめたため、大観は菱田と共に海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて日本国内でもその画風が評価され始め、1907年(明治40年)にはこの年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員を務め、1913年(大正2年)には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。
戦後になると、1951年(昭和26年)日本美術院会員を辞す。同年文化功労者。1957年(昭和32年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で死去。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
横山大観(よこやまたいかん) (1868-1958) 89歳で死亡。 (一部抜粋しています)
大正元年文展を見にいった夏目漱石は、大手の画家の絵を無個性として酷評した中に、大観の「瀟湘(しょうしょう)八景」を「大観君の八景を見ると、此(この)八景はどうしても明治の画家横山大観に特有な八景であるという感じが出て来る。(中略)君の絵には気の利(き)いた様な間の抜けた様な趣(おもむき)があって、大変に巧みな手際を見せると同時に、変に無粋(ぶいき)な無頓着な所も具えている。君の絵に見る脱俗の気は高士禅僧のそれと違って、もっと平民的に呑気なものである」云々と賞揚した。
さすがに漱石で、大観の絵の価値と本質を炯眼(けいがん)にとらえているが、しかし明治から大正初期にかけて――50歳になんなんとするまで――「無我」屈原」「流燈」などの名作を描きながら、その画法が朦朧(もうろう)体として世にいれられず、かつまた彼自身、反官在野の叛骨の持主で、惨澹たる貧苦と不遇の中にあった。
が、大正後半にはいって、「遊刃有余地(ゆうじんよちあり)」「生々流転」などの傑作を出して、次第になんびととも無視できない巨匠たる地位をかためていった。が、同時に……画家にして作家たる近藤啓太郎はいう。大正12年、55歳のときの「生々流転」を頂点として大観の絵は下降しはじめる、と。
昭和期にはいって、彼の多く描いたフジの絵の大半は愚作であると近藤はいうが、しかし日本画壇の第一人者という批評は確定したかの観があった。そして大観自身も、若き日の叛逆児の面だましいはけし飛んで、帝室技芸員芸術院会員を嬉々として受け、金モールの大礼服を着て写真をとるありさまになった。
そして、次第に国粋的になってゆく風潮の日本美術界の総帥的存在となり、ために敗戦直後――敗戦の年、彼は77になっていた――戦犯に指定されるという風評におびえて、進駐軍の関係将校を料亭に招いて接待するという狼狽ぶりを示した。
晩年の大観は、孫娘たちから見ても、意地わる爺さんであったという。生活費をもらいにゆくと、聞くにたえない嫌味をいい、大観夫人がひそかに金をやるのを警戒して、金のはいっている箪笥(たんす)の前に坐って動かなかったという。
が、彼女たちはまたいう。「寝食を忘れるって言葉があるでしょう。おじいちゃん、その通りだったわ」――絵に対する大観の情熱のことである。
一方で彼は、性格破綻者であるが彫刻にかけては大才があると彼が認めた佐藤朝山に、ほとんど無際限に金をあたえるような行為をやっている。ただのケチンボになったわけではないのである。
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大観は、昭和30年春87歳のとき、病臥して重体におちいったが、その病床で酒を求め、飲み干すこと1合、以後奇蹟のように解放に向かって、その怪物ぶりに医者を驚かせた。彼は平生から「米のエキス」と称して1日1升の酒を欠かさなかったが、そのあとも朝1合、昼晩各2合の酒を主食とし、飯も粥(かゆ)も副食物もほとんどとらずに書き福し、32年の春には「山川悠遠」、秋には「不二(ふじ)」を描くほどになった。
このころ彼は、「わしに酒を飲むな飲むなとうるさくとめた医者たちのほうが、みんな先に死によった」と苦笑していった。
しかしそのあと急性気管支肺炎にかかってふたたび病床につき、翌昭和33年2月26日午前零時51分に永眠した。死後解剖したところ肝臓に何の異常もなく、他の内蔵も60代の若さであったという。

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