じじぃの「人の死にざま_537_徳富」

徳富蘇峰 - あのひと検索 SPYSEE
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9.徳富蘇峰をプレゼン:同志社創設:新島襄を恩師とする徳富蘇峰とは? 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zIbScF0ChM0
OBT人財マガジン Nobless Obligeに学ぶ専門家の精神と倫理観!
テレビドラマ『官僚たちの夏』が好評を得ているようである。
戦後日本の高度成長の土台となった産業復興、特に製造業の育成・強化に懸命に取り組んでいる姿が描かれている。
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徳富蘇峰氏曰く「志在天下」、大きな志を持って仕事を行うということに尽きるのではないだろうか。
リーダーは、本当に悪い時には、自ら率先して先頭に立ち、良い時には後ろに控えるというヨーロッパでいう「高い地位や身分に伴う義務」を持ち、国のため、社会のため、人のために自分を犠牲に出来る高い倫理観を持つことが、日本の針路が厳しく問われている今だからこそリーダーといわれる人たちには強く求められるのでないだろうか。
http://www.obt-a.net/web_jinzai_magazine/management/2009/08/post-74.html
徳富蘇峰記念館
http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/
徳富蘇峰 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
徳富蘇峰は、日本のジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家。本名は徳富猪一郎。
【経歴】
肥後国水俣郷士徳富一敬の長男として生れた。熊本洋学校に学び、洋学校閉鎖後は京都の同志社英学校に転校の後退学。明治14年1881年)、帰郷して大江義塾を創設、地方新聞に執筆寄稿。相愛社員として民権運動に参加。
明治18年(1885年)、『第19世紀日本の青年及其教育』、19年(1886年)、『将来之日本』で論壇デビュー 。上京して民友社を結成し平民主義を主張する月刊誌『国民之友』を主宰。明治21年1888年)-22年(1889年)、大同団結運動支援の論陣を張った。明治23年(1890年)には『國民新聞』を創刊。
大正2年(1913年)の第一次護憲運動(大正政変)では、國民新聞社は桂太郎首相の御用新聞と目され、再び暴徒の襲撃を受けた。桂の失脚に伴い政界を離れ、以降は、時事評論と修史に健筆を揮った。大正7年 (1918年)、『近世日本国民史』連載開始に際し、京城日報社監督を辞任した。大正12年(1923年)、『近世日本国民史』の業績が認められ、帝国学士院の恩賜賞を受賞した。大正14年(1925年)、帝国学士院会員に任命された。
大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱える。国民皆兵主義の基盤として普通選挙実現を肯定的に捉えた。
昭和6年(1931年)『新成簀堂叢書』の刊行を開始。白閥打破、興亜の大義、挙国一致を喧伝した。昭和16年の太平洋戦争開戦の詔書を添削している。 昭和17年(1942年)には大日本文学報国会を設立し会長に就任。昭和18年(1943年)には文化勲章を受章(敗戦後に返却)。
昭和6年(1931年)『新成簀堂叢書』の刊行を開始。白閥打破、興亜の大義、挙国一致を喧伝した。
昭和17年に大日本言論報国会会長に就任。無条件降伏受諾に反対し天皇の非常大権の発動を画策したが実現しなかった。
戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、終戦後にA級戦犯容疑を受けたが、老齢と三叉神経痛のため、GHQにより自宅拘禁となり不起訴となった。公職追放となり熱海市に蟄居。戦犯容疑をかけられたことを理由として、1946年(昭和21年)には、言論人として道義的責任を取り文化勲章を返上している。
『近世日本国民史』は大正7年(1918年)に起稿し、昭和27年(1952年)に完結。史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書である。平泉澄校訂により時事通信社で刊行され、全巻完結したのは、没後の昭和38年(1963年)であった。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。墓所は東京都立多磨霊園にある。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
徳富蘇峰(とくとみそほう) (1863-1957) 94歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治17年、熊本から上京し、23歳で平民主義を鼓吹(こすい)する『将来之日本』をひっさげてジャーナリズムに登場した蘇峰は、その後三国干渉による衝撃から、一転して大軍国主義者に変り、一部から変節者のレッテルを貼られた。
しかし蘇峰の歩みは、明治から昭和に至る日本の歩みと、完全に方向を共にした。よかれあしかれ、この3代を1人にして代表する日本人をあげるとすれば、彼こそ最適の第一人者に相違ない。
蘇峰は日本の言論界の帝王たる地位を占める一方、大正7年、55歳からライフワーク『近世日本国民史』を書きはじめた。その目的は「明治天皇御宇史」を書くことにあり、その前提として織田氏時代から起稿したのだが、27年の星霜を経て、第97巻「西南戦争・熊本城攻守篇」半ばにして、昭和20年8月15日を迎えるに至った。彼はその中に書きいれた。「昭和二十年八月十五日は、実に我が皇国に取りて、永久に記念すべき悪日である」
このとき蘇峰は82歳であったが、前年、それまでの18年間秘書として務めた八重樫祈美子の死の前、病床の彼女に、81歳の彼が、5ヵ月の間に130通にのぼる少年のようなラヴレターを送ったほどの若い血を持っていた。
日本の降伏調印の日、殻は「百敗院泡沫頑蘇居士」とみずから戒名をつけた。翌年の新年、彼は歌を作った。「おれの恋人と誰かと思う。神の作った日本国」
その大日本国は崩壊した。蘇峰は「戦犯」に指定され、やがてそれは解かれたが、追放令はまぬがれなかった。
昭和23年には、彼との間に4男6女を生んだ静子夫人を失った。彼はまた、生きているうちに、その4男のすべてと1女の死を見なければならなかった。
日本の敗戦は、明治以来の彼の全人生の崩壊ともいうべき事態で、さすがの彼も国民史をつづける気力を失い、おまけに−−おそらく心理的苦悩から発したと思われる−−激烈な三叉神経痛に苦しんだが、昭和26年11月に至り、ふたたび以前と同じ時計の針のような正確な日課通り、国民史の続稿を開始した。
同じ昭和26年、小学校教師団の「国民史は何を目的として書かれたか」という質問に対し、当然皇室賛美の返事を予期したのに、彼は「日本人の立体的大肖像画を描くつもりであった」と答えた。これは彼らしい老獪(ろうかい)な答えであったが、しかし必ずしも逃口上でもなかったと思われる。彼の国民史は、歴史の中のおびただしい原告、被告の言い分を意外に客観的に採用した堂々たる史書だからである。
しかし、昭和27年の蘇峰はまだ生きているのに正宗白鳥はいった。
「時勢の激しい変遷によって、当年の先覚者の色が褪(あ)せて、世に忘れられるのは有り勝ちの事であるが、忘れられながら、ふと思い出されて、『ああ、あの人はまだ生きているのか』と懐かしがられる事もあるのだが、蘇峰にはそれがないようである。彼の逞しい活動の、長い一生も影が薄らぐばかりである」
かっては、書くはしから出版された国民史は、戦後、彼が生きているうちは、1冊も刊行されなかった。しかし彼は口述筆記によって筆をすすめた。
昭和27年、数えで90歳になったとき、彼はようやく100巻目を書き終えた。4月20日であった。しかし99巻目でやっと西南戦争を書き終え、100巻目は、彼みずから「最早一生の幕を閉ずべき時日が、日に相迫りつつある際に於いて、せめて曲がりにも一応の結末をつけたり」と告白したような内容で、それまでの明治史の総まとめに過ぎなかった。「明治天皇御宇史」を書こうという彼の壮大なライフワークは、明治10年まで−−すなわち、その4分の1にも足らずして挫折したのである。しかし、彼は意外に平静であった。おそらく悲憤する気力も失われていたのであろう。
同じ年に、彼は、晩年の秘書の藤谷みさをにいった。
「90年間生きて来て、たった1つ言えることは、いつ何時(なんどき)でも怖れないで死を迎えられそうな気がして来たことです」
彼はなお5年の余命を持ったが、昭和31年春ごろから発熱臥床を繰返すようになり、翌年の10月5日、ついに最後の病床についた。主たる病名は膀胱炎であった。
その28日、伊豆の晩晴草堂を見舞った藤谷みさをは記す。
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「あれ程に甥の心身を傾け尽くされた先生の魂の結晶が、永久に先生の期待を裏切って、竟(つい)によき知己に遭遇し得ない場合を想像することは、余りに悲劇であり過ぎる」
しかし、彼の『近世日本国民史』は、戦後の史家に、それが皇室中心主義者徳富蘇峰史書であるがゆえに、表面黙殺されつつ、実は大いに利用されているという。何よりもそこには、当時の大蘇峰にしてはじめて使用し得た史料が満載されているからである。

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