池田弥三郎 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%BC%A5%E4%B8%89%E9%83%8E/1478735
私だけが知っている - ドラマ詳細データ テレビドラマデータベース
推理小説の謎解きの面白さをねらったクイズ番組だが、問答形式のクイズだけでなく、ドラマをミックスさせたユニークさが受け茶の間をわかせた。30分のうち、出題ドラマが16分、謎解きが12分、そして「天の声」による解答と解説が2分間入るといった構成。徳川夢声を探偵長に、江川宇礼雄、池田弥三郎、有吉佐和子のレギュラー陣で探偵局を構成。ほかに、時の人や話題の人たちをゲスト探偵として招いたが、探偵たちの真剣に謎を解く姿勢が好感を呼んだ。なお、出題ドラマの脚本担当には、まだ無名だった作家・笹沢左保も加わっていた。
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-1158
池田彌三郎 ウィキペディア(Wikipedia)より
池田 彌三郎(いけだ やさぶろう)は、日本の国文学者、民俗学者、随筆家。
【経歴・人物】
慶應義塾大学文学部教授時代、1957年 - 1963年にかけて、NHKのクイズバラエティ番組「私だけが知っている」などに出演し、タレント教授の走りとしても知られた。この間、1962年、『婦人公論』に「大学女禍論」と題する一文を発表し、早稲田大学教授の暉峻康隆と共に、女子学生亡国論を唱えて物議をかもした。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
池田弥三郎(いけだやさぶろう) (1914 - 1982) 68歳で死亡 (一部抜粋しています)
銀座のしにせのてんぷら屋「天金」の三男坊に生まれたが、国文学者として、恩師折口信夫のいわゆる折口民俗学の伝承者となった池田弥三郎は、他方30を超える学会芸能界の委員となる多忙な生活をおくり、かつ粋(いき)な「江戸っ子」の代表的人物として知られたが、昭和55年3月、慶応の教授を定年退職すると、意外にも富山県の魚津短大の教授をひき受けて世人を驚かせた。
が、赴任の前々日、銀座を歩いていて、足がもつれて動けなくなり、4月上旬魚津に到着してから高熱を発して寝こみ、5月には帰京して入院する羽目になった。
彼は、過程で晩酌はしなかったが、銀座で友人とつき合うときは12、3軒の酒場をハシゴするのがふつうという酒豪で、すでに慢性肝炎にかかっていたのが肝硬変にかかっていたのである。しかし、このころまでは自覚症状はなかった。
・
2年後の昭和57年にはいって急速に肝硬変の症状が現われはじめ、5月には吐血、12日には救急車で魚津から東京まで9時間走って東京女子医大病院に入院した。そのとき彼は、主治医の久満助教授に泣き笑いの表情で、「やっぱり先生のいうことを聞いてりゃよかったなあ」といった。
しかし、久満助教授はあとでいう。「酒を飲んでもいいとはいえないから、やめた方がいいですよ、とはいいます。やめて肝硬変がなおるものなら、本人もやめるでしょう。池田さんが30歳ならば、妻子の将来を考えて何としても酒をやめてもらったでしょう。しかし、もう60歳を過ぎ、功成り名とげた人に、やめて下さいというのは、どれだけ意味があるでしょうか」。これは名医である。
入院後も彼は東京の食い物屋の店の名をメモさせ、それを回って歩くことをうわごとのように口にしていたが、次第に意識不明の状態となり、7月5日午前11時過ぎ、肝硬変による静脈瘤破裂を起こして死亡した。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
池田弥三郎 Google 検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%BC%A5%E4%B8%89%E9%83%8E&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=8vkGUtnLC46PlQWCmoDwDw&ved=0CD0QsAQ&biw=1011&bih=626