じじぃの「人の死にざま_934_折口・信夫」

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今月の読書「死者の書折口信夫
死者の書というと、考古学や歴史の好きな方は、「エジプトの死者の書」を、チベット仏教に関心をお持ちの方なら「チベット死者の書」をまず頭に思い浮かべられるだろう。
でも今月取り上げるのは、そういう葬礼文書や宗教書ではなく、昭和十四年に書かれた折口信夫歴史小説の「死者の書」である。小説のタイトルとしてはかなり怖い。どんな内容なのか、まずはあらすじをみてみよう。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/mayalibrary/niki/niki17.htm
折口信夫 ウィキペディアWikipedia)より
折口信夫は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空と号した詩人・歌人でもあった。
彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。
柳田國男との関係】
柳田は折口より十二歳年上であったが、共に1945年(昭和20年)の敗戦時には60歳を既に迎えていた。その戦後のこと、重い口調で柳田は折口に話しかけたという。「折口君、戦争中の日本人は桜の花が散るように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、海に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣藤井春洋の硫黄島玉砕という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的で、敗戦の詔を聞くと四十日間喪に服し、自分の死ぬまで遺影前の供養を欠かさなかったという。第二次大戦で失った戦死者の鎮魂は大きな課題で、戦没者が生前に殉じる価値を見出そうとした皇国などといった概念も天皇人間宣言とともに潰え果てたのである。柳田も日本人の神や魂といった問題意識は共有していて、折口は後その問題を「民俗史観における他界観念」という著に収斂させていくこととなる。
柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。なお角川ソフィア文庫版『遠野物語』に折口の跋文がある。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
折口信夫(おりくちしのぶ) (1887-1953) 66歳で死亡。(一部抜粋しています)
「あれほど旅行好きだった先生も、晩年にはその喜びが浅くなってしまったことをときどき歎かれることがあった」
と、晩年書生として折口家に住んだ弟子岡野弘彦は『晩年の折口信夫』に書いている。
「亡くなられる年の早春のことである。その頃しきりに出かけた、一日か半日の小旅行に発つために、大森駅で電車を待っていた。朝の陽ざしが、ホームにも、鉄色に赤茶けた石垣にも、淡々(あわあわ)とさしていた。先生は独りごとのように、『旅に出る朝の小躍りすら、もう感じられなくなってしまった。昔はこんなではなかったのに』 とつぶやかれた。そのときの顔の深い翳(かげ)りは忘れられない」
晩年の数年、折口は神経痛に悩んだり、高血圧で失神したり、胃の膨満感を訴えたりしたが、しかし多忙な学究生活を送っていた。
昭和27年7月4日から、彼は岡野を連れて箱根の山荘に滞在した。岡野は記す。
「箱根に来てからの先生の体と心の急激な衰えは、異様というよりほかなかった。毎夜の指圧のとき、指先に触れる肌の渇きや、筋肉のこわばりの具合で、一日一日の肉体の衰えの様子はありありと感じられている」
そして、8月15日。
「いつもより遅く仙石原の村へ買い物に下って帰ってくると、もう薄暗くなっているのに、先生の部屋には灯もともっていない。不思議に思って、そっと入ってゆくと、家のまわりの萓原を渡って来た風が、網戸をとおして涼しく吹き込んでくる畳の上に、先生はひっそりと白い浴衣を着て仰臥していられて、その枕もとに、ここ二、三日のこうした歌を書き散らした和紙が、異様な白さで、ゆらゆらと風に舞い立っているのであった」
こうした歌とは、このころ折口が作った、
「いまははた老いかがまりて 誰よりもかれよりも 低きしはぶきをする」
「かくひとり老いかがまりて ひとのみな 憎む日はやく 到りけるかも」
などの歌をさす。
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28日昼過ぎ、手をはげしく痙攣(けいれん)するようにふるわせ、眼を白くつりあげ、口をぱくぱくさせて岡野を驚かせたが、すぐに、「はっはっ……ジキルとハイドでおどらかしてやったんや」と、笑い出した。この時点ではまだこんな馬鹿馬鹿しいいたずらをやって見せる余裕があった。
29日、帰京したが、その車の中で折口は何度も錯乱状態におちいった。
渋谷の近山病院で診察を受けた結果、胃ガンという診察が岡野に知らされた。一応大井の出石町の自宅で静養させたのち、31日、改めて慶応病院に入院した。
入院後、女が身体にふれることを極度に嫌う折口は、看護婦が遠慮会釈なくテキパキと世話をしてくれるのに恐怖し、そのためかどうか、9月1日、2日と、執拗なしゃっくりに苦しみはじめた。そして、9月3日。
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午後1時ごろ、内科主任教授の石田博士が、10人ほどの医師を従えてやって来て、ただちに主治医に強心剤の静脈注射を命じた。
「脈の弱いためか非常に入りにくい。それが施されているうちに、先生の瞳がすうっと上まぶたのほうに吊りあがって静止し、咽喉が低い音をたてた。私ははっとして時計を見た。一時十一分であった」
と、岡野弘彦は記す。

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