じじぃの「人の死にざま_645_佐藤・春」

佐藤春夫 - あのひと検索 SPYSEE
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original『夏のわが戀』 佐藤春夫詩 Takaaki Mikihiko(高秋美樹彦) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TCJafFl66gk
佐藤春夫「田園の憂鬱(でんえんのゆううつ)」を読む
http://sakubun.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/05/post_a353.html
佐藤春夫 ウィキペディアWikipedia)より
佐藤春夫は日本の小説家、詩人。
【経歴】
和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に医師・佐藤豊太郎(号は鏡水)、政代の長男として生まれる。
旧制第一高等学校の入試に臨んだが試験を中途で放棄し、慶應義塾大学文学部予科に進む(のち中退)。慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風に学ぶ。兄弟子に当たる久保田万太郎とは犬猿の仲であったが、荷風の死後明らかになった『断腸亭日乗』に、弟子の久保田と春夫を中傷する内容が書かれていたため、和解した。
1911年(明治44年)1月24日、同郷の医師である大石誠之助が大逆事件の被告として処刑されるが、その当時の心情を同年5月に詩「愚者の死」として『スバル』に発表し、折口信夫上田敏に評価されている。1917年(大正6年)に神奈川県都筑郡に移り、『病める薔薇』の執筆を始め、翌年『黒潮』に発表。1919年(大正8年)にこの後半を書き足した『田園の憂鬱』を完成させて『中外』に発表。また同年8月から12月にかけて、短編「美しい町」を3回にわたって『改造』に分載。1921年に『殉情詩集』を発表し、小説家、詩人として広く認められる。また『新青年』誌などで多くの推理小説を発表。
友人である谷崎潤一郎の妻・千代に横恋慕し、1930年(昭和5年)に譲り受けるということがあった。谷崎と千代の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されてセンセーショナルな反響を呼び起こした。代表作である「秋刀魚の歌」(詩集『我が一九二二年』所収)も千代への思慕が背景にある。谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。
1964年(昭和39年)5月6日、夕方頃に朝日放送の「一週間自叙伝」というラジオ番組の5月20日放送予定分を自宅の書斎で録音中、「私は幸いにして…」という言葉を発した直後心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
佐藤春夫 (1892-1964) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和39年5月6日、佐藤春夫は「放送朝日」のラジオ番組「1週間自叙伝」の録音を文京区関口町の自邸でとることになった。
担当の放送朝日社員大熊邦也は語る。
「5月6日の夕方、蔦(つた)が緑色に美しくかがやいている佐藤家の門をくぐりました。
和洋折衷の10畳ほどの部屋で、和服姿の先生はこころよく私を迎えて下さいました。
『大阪から来たのでは大変お疲れでしょう。お茶でも飲んでから始めましょう』と、私の遅れて来た心苦しさをいたわって下さいました。私はその暖かい心づかいに感謝しながら、先生のお顔を拝見して、耳の大きさ豊かさに驚きました。
自分の半生を自分で話すということは、たいていの人が少しはテレる場合が多いのですが、先生も少々その気持ちがあって落ちつかれないにか、タバコをかなり吸われ、あらためて『それじゃ、やりましょう』と申されて、元気に録音を開始いたしました。この開始時間は私の記憶では5時35分だったと思います。
1回目のお話は、和歌山ですごした小学校時代のエピソードが主で、言葉も生き生きとして、お年のわりにはツヤのあるよい声だなと、と私は聞きほれていました。
役9分ほど録音したところで、1回目の区切りがつき、『調子はどうですか』と先生は満足げに私にきかれました。
『先生、大変結構です』と申しますと、先生はふたたびタバコに火をつけて『一休みしましょう』と血色のよい顔色でタバコをゆっくりと吸っておられました。
やがて2回目の録音が始まりました。
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3回目の録音に入る前に、『ぼくは、中学校時代には、話すことがたくさんあるんだ』とかなり長い間、頭の中を整理されて『それじゃ・・・・』ということで3回目の録音に入りました。6時10分ごろだったと思います。
前回と同じ調子で録音がはじまり、30秒ほどしたとき、私は耳にイヤホーンをかけてお話に聞き入っていましたが、突然息づかいが変になり、次第に苦しそうになりました」
そのとき佐藤春夫はこんなことを話していた。「学校ストライキがだんだん大きくなってしまって、学校の特別教室というのが、まあ化学教室やなんかからの1棟が、放火事件で・・・・放火らしい形で・・・・火事が起こって焼けてしまったんでね。そのとき私は東京に来ていたんで、倖いに・・・・」
そこで言葉は切れた。大熊は語る。
「私は本能的にその異常を感じて、『先生、大丈夫ですか』と叫んでいました。だが、その答えはなく、呼吸は乱れ、右食えの上にばったり倒れられると、人間ではないような、大きな、しかも怖ろしいうめき声に変わりました。
わたしは異様な恐怖につつまれ、録音中、先生の書斎には外からカギがかけられていましたので、『奥さん、奥さん』と大声で叫びました。だが、返答はありません。
一方、先生のうめき声は、机にうつぶせになったまま異様さを増すばかり、私はカギのかかっているドアを破るつもりで、『奥さん』と叫びつづけました。
――奥さんがこられるまで3分はたったでしょうか。先生の声はすでに消えておりました。血色のよいお顔、張りのあるお声、数分前のあの元気なお姿を知っているだけに、私は茫然としていました。
ときに6時15分、私はただひとり、1時間余りの時間のなかで、文豪の生と死の境界をみつめたのです」
彼は心筋梗塞を起こしたのであった。

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