じじぃの「人の死にざま_455_金田一・京」

金田一京助 - あのひと検索 SPYSEE
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アイヌ民族博物館 アイヌの唄 動画 YouTube
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アイヌとして生きる」(6) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=25rNpp9pRFg&feature=related
金田一京助 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
金田一京助は、日本の言語学者民俗学者アイヌ語の研究で知られる。
岩手県盛岡市四ツ家町(現本町通二丁目)出身。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。東京帝国大学より文学博士。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章文化勲章盛岡市名誉市民。歌人石川啄木の親友であったことでも知られる。
長男の春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者
【逸話】
歌人石川啄木は、盛岡中学時代の後輩で親友。金をよく貸したことでも有名。
金田一アイヌ語の研究を始めた頃は、言語学の聞き取り調査では最も重要な言葉の一つである「ここは何処?」ですら何と言うのかよく分らない有様だった。そこで金田一は思案の末、訳の分からない絵を描いた紙をアイヌ人に見せ、その反応から「何?」という言葉を聞き出すことに成功。ここから膨大なアイヌ語の単語を一つひとつ聞き取り調査で記録するという地道な事業が始まった。当時はアイヌ民族は和人よりも劣った民族であると教え込まれていたが、金田一は「あなた方の文化は、けして劣ったものなどではない」と、真摯に接した。
金田一畢生の大著『ユーカラの研究:アイヌ叙事詩』I・II は、最初、欧文の博士論文として大学へ提出されたが、審査の適任者を欠くまま大学附属図書館に置かれているうち、関東大震災で焼失する。これを惜しんだ柳田國男は、懇意にしていた岡書院店主岡茂雄に助力を依頼。岡の励ましと協力により、金田一が邦文で新たに書き直した。
横溝正史推理小説に登場する名探偵・金田一耕助の名は、金田一京助の名がもとになっている。横溝が『本陣殺人事件』を執筆していたころ、同作に登場する新しい探偵の名には当初「菊田一◯◯」という名を考えていたが、ちょうどそのころ横溝が住んでいた東京・吉祥寺の隣組にいた「金田一安三」から、「菊田一(きくたいち)」とよく似た「金田一(きんだいち)」へに変更したのである。また安三が著名な言語学者・京助の実弟だということを知ると、「京助(きょうすけ)」の方も拝借して「耕助(こうすけ)」とした。金田一春彦は、「金田」と読み間違えられることが多い「金田一」姓を有名にしてくれた横溝に、「千金を積んでもいい」と感謝している。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
金田一京助 (1882-1971) 89歳で死亡。 (一部抜粋しています)
息子の春彦の批評によると、言語学者金田一京助のみるべき業績は50代までの仕事であるという。
しかしその名声はそれ以後に高くなり、文化勲章以下数々の栄誉にかがやいた。しかし、長い間の貧乏と度はずれの人のよさと奇行のために、その妻からは生涯うとんじられ、その家庭生活は寂しかった。
昭和43年、妻の静江は本郷のマンションに移り、86歳の京助は杉並の自宅から動かず、1人残って『アイヌ叙事詩ユーカラ集』の訳注に耽(ふけ)った。その杉並の家を冬暖かくするため、春彦は一部改造にとりかかり、それは46年春に完成した。その間本郷のマンションに移されていた京助は、改築された自宅に帰ってきたが、すでにモーロクしていて「ここはどこのおうちだ?」と悲しそうにつぶやくばかりで、こんどはマンションにひき返して動こうとしなかった。
その46年11月6日、昏睡におちいり、14日、しずかに息をひきとった。

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