じじぃの「人の死にざま_1135_関口・存男」

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ことばの哲学 関口存男のこと 感想 池内紀 読書メーター
ドイツ語学者の人と仕事を語ってドイツ語を使わず、ドイツ文の文例を借りず、言語学の用語を用いず、生涯をたどるかたわら、そこに色濃い「ことばの哲学」を追求する。
http://book.akahoshitakuya.com/b/4791765745
関口存男 ウィキペディアWikipedia)より
関口存男(せきぐちつぎお)は、日本のドイツ語学者である。通称ゾンダン(ドイツ語のsondernにかけてある)。また、村田実らの新劇運動に参加、主役級の俳優として大正期の無声映画に出演していることでも知られる。
【来歴・人物】
留学経験皆無ながら高度なドイツ語能力を身につけ、発音も極めて流暢だったと伝えられる。ドイツ語や英語の他、フランス語やギリシア語、ラテン語にも通じ、法政大学で同僚だった田中美知太郎(京都大学名誉教授)の回想によれば、或るときデモステネスの文章中の条件文について質問してきたが、それは素人の質問ではなかったという。ナチを逃れて仙台に亡命していたカール・レーヴィットが関口の書いたらしい公式質問書を読み、大変薄気味悪がったという話をも田中は伝えている。関口のドイツ語があまりに日本人離れしていたため、ナチス党員の誰かが書いたものではないかと疑ったというのである(田中美知太郎『時代と私』)。

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『かくもみごとな日本人』 林望/著 光文社 2009年発行
大努力の人 関口存男(1894 〜 1958) (一部抜粋しています)
大正期の新劇団踏路社に、役者、脚本家、翻訳家等々を兼ねた関口存男(通称ゾンダン)という人があった。関口は、ドイツ語とフランス語を自在に操って周囲を驚かせたが、後のドイツ語学の碩学として知られるようになる。関口は明治27年、陸軍主計将校を父として姫路に生まれ、自身また陸軍幼年学校、士官学校と進んで大正4年に卒業、しかし、まもなく胸を病んで軍務を離れ、演劇人・学者として再出発したのである。
さて、大阪の幼年学校に入学後、その14歳の時に関口は俄然ドイツ語をやろうと決意、いきなりレクラム文庫の独訳『罪と罰』を買込んで、辞書を引き引き、人に教わるのではなく自ら考えて読み進めるという破天荒な努力を毎日続けた。そして2年ほどの間に数百ページを読破する。
後年、
「おしまい頃には、なんだか……わかりだしたのです!」
と、関口は述懐している。たしかに彼は語学の天才であったが、また絶倫的大努力の人でもあった。関心を持ったことについて余人の及び難い勉強努力をする人であった。
関口はまた、
「天才とは、即ち、旺盛なる関心のことです」
とも言っている。大正5年22歳で陸軍を休職して上智大学に入学し、同6年アテネフランセでフランス語を学ぶや、翌年には忽(たちま)ち同校のラテン語教授となる。
そうして、なお中国語、ギリシャ語、エスペラント語、など多くの語学を解した。関口は後に、法政大学教授となって世に関口文法と呼ばれる独自の文法理論を構築、ドイツにまでその碩学は鳴り響いた。
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碩学にしてなお真摯な家庭人でもあった関口は生涯深く愛した妻為子が昭和33年1月に没すると、その後を追うように同年7月脳溢血のため忽然として世を去った。

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