じじぃの「人の死にざま_1034_高木・兼寛」

高木兼寛 - あのひと検索 SPYSEE
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オカメインコの病気 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Mzk6ZO4TAWs
ビタミンB1の多い食べ物
ビタミンB1を多く含む食品は、豚肉、小麦胚芽や玄米などの穀類、落花生や大豆などの豆類・種実類、うなぎなどです。中でも豚肉ついでうなぎは一度に食べる量も多くビタミンB1自体の含有量も豊富なので、補うにはもってこいの食品です。
http://vitamine.jp/bita/bitab101.html
高木兼寛 ウィキペディアWikipedia)より
高木兼寛(たかきかねひろ、嘉永2年9月15日(1849年10月30日) - 大正9年1920年)4月13日)は日本の海軍軍人、医学者。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。「けんかん」とも呼称される(有職読み)。当時なじみの薄かったカレーをかっけの予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。
【兵食改革と脚気論争】
当時軍隊内部で流行していた脚気について海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決にとりくみ、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気新患者数、発生率、及び死亡数が1883年(明治16年)1,236人、23.1%、49人、1884年明治17年)718人、12.7%、8人、1885年(明治18年)41人、0.6%、0人、以降1%未満と激減した。高木は、1884年(明治17年)の軍艦筑波号による航海実験も行ってこの兵食改革の必要性を説いた。この航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる。その後、いわゆる海軍カレー脚気撲滅にひと役買ったとも言われている。
麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上にビタミンの発見があった。
脚気 ウィキペディアWikipedia)より
脚気(かっけ、英: beriberi)はビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。
ほかのビタミンB1欠乏症による代表疾患には、ウェルニッケ脳症や高ピルビン酸血症がある。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
森鴎外 『鴎外全集』岩波書店 ドイツに学び、兵士の白米食を唱えた文豪・鴎外のもうひとつの顔 【執筆者】大井玄 (一部抜粋しています)
南山の/たたかひの日に/袖口の/こがねのぼたん/ひとつおとしつ/その扣鈕(ぼたん)惜し・・・・・・日露戦争森鴎外が詠んだ『うた日記』中の佳篇「扣鈕」の冒頭だ。
思春期に、彼の『舞姫』、『雁』、『即興詩人』などを読み夢中になった。ほとんど彼の目を通してヨーロッパを夢見たのだ。ドイツ語を学んだのもその影響といってよい。したがって、思いかけず彼と同じ社会医学としての衛生学に進み、日清・日露戦役で陸軍が膨大な数の脚気患者と死者を出した責任は、彼にも大いにあると知った時のショックは大きかった。
海軍は9ヵ月の遠洋航海で半数近い乗組員が脚気にかかる惨事を機に、白米偏重の食事が原因だと気づいた。高木兼寛が麦飯食を断行し脚気は根絶する。陸軍はドイツ留学中だった森林太郎(鴎外)の「日本兵食論」を根拠に白米食固執する。しかも森は戦闘的だった。帰国後「非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス」などで、日本食は西洋食に脂肪、含水炭素、蛋白のいずれにおいても劣らないとし、高木兼寛を露骨に非難した。結果、日露戦争では陸軍の脚気患者25万、その死者2万千。
文豪鴎外は私の心象世界に聳えている。軍医森林太郎は誤った我説に固辞し、予防できる惨事を招いた。2人を融合できるようになったのは、私が、70年を生きたからである。

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『図解 世界に誇る日本のすごいチカラ』 インタービジョン21【編】 三笠書房 2012年発行
南極の岬に名を残している日本人とは誰?
脚気がビタミンBの不足で起こることは現在よく知られているが、明治初期には原因も治療法もわからなかった。1883年、いち早く「脚気の原因は栄養のアンバランスだ」と唱え、「ビタミンの父」と称されるのが高木兼寛である。
当時海軍では脚気になる兵が多く、問題となっていた。英国で医学を学んだ高木は、白米中心の兵食の主食をパンや麦飯に代え、副食に肉を増やすことを提案。一方、陸軍ではドイツ医学を学んだ軍医らが「伝染病説」を唱えており、真っ向から対立した。結果、海軍では兵食の改善が功を奏し、日清・日露戦争では脚気患者はほとんど出なかった。1912年にはフンクがビタミンを発見。マッカラムが脚気予防因子を「ビタミンB」とし、高木の説が正しかったことが裏付けられた。ちなみに「伝染病説」を最後まで曲げなかったのが、当時軍医だった文豪・森鴎外である。
1959年、英国の南極地名委員会南極半島に「高木岬」を命名。岬に名を残している唯一の日本人であり、欧米においていかに評価が高いかを物語っている。

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高木兼寛 Google 検索
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