じじぃの「科学・芸術_400_日本軍兵士・ガダルカナル島の戦い」

World War II - The Battle Of Guadalcanal 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LpJkuQ24na4
Battle Of Guadalcanal

米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視〜重傷病者には「自決」を要求 本現代新書 現代ビジネス
負傷した将兵も「適切な治療施設がなく、常に包帯に雨が染みこみ、マラリア脚気腸炎のような悪疫が流行していたため、傷兵の死亡率は80パーセントを超えていたはずである。
ガダルカナルから後送された傷兵の数は少なく、傷兵の大多数は死んだとみるのが妥当である」とされている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44638?page=3
『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』 吉田裕/著 中公新書 2017年発行
死にゆく兵士たち――絶望的抗戦期の実態 Ⅰ より
次に、形式上は戦死、戦病死に区分される場合が多いものの、実態上はそれとは異なる死のありようについて取り上げよう。第1には、自殺(自決)である。
そもそも陸軍および海軍には、アジア・太平洋戦争開戦前から自殺者が多かったという分析がある。1938年の論説、憲兵司令部「最近における軍人軍属の自殺について」は、陸海軍の軍人・軍属の自殺者数は、毎年120人内外、最近10年で1230人に達しているとして、「右の人数は軍人、軍属10万人に対して30人強に当る、10万人につき、30人の比率は一般国民の自殺率よりやや高い」、したがって、「日本国民の自殺率は世界一であるから、日本の軍隊が世界で1番自殺率が高いということになる」と結論づけている。
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アジア・太平洋戦争の開戦後しばらくの間は、傷病兵の「処置」は、ほとんど問題とならなかった。日本軍が優勢で傷病兵の後送が不可能になるような事態が生じなかったからである。しかし、連合軍の反攻作戦が始まると、状況は大きく変わる。戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。
その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。この戦いに敗北した日本軍は1942年12月に同島の放棄を決定、翌43年2月に駆逐艦による撤収作戦を実地して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。陸軍の正規将校出身で、戦後は自衛隊に入って軍事史研究に従事した近藤新治は、つぎのように書いている。
  ガ島撤収部隊の実情を視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長[田辺盛武中将]が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。
   当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり
  この文中の「特別のもの」とは、一体何なのであろうか。[中略]多くは全戦線にわたってかかえ込んでいた動けない患者なのである。
   単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇示錠[強い毒性を持つ殺虫剤]2錠宛を分配す
  これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。
                     (「ガダルカナル作戦の考察(Ⅰ)」)
つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇示錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤収させる方針である。対外的には赤十字条約に批准しながら、国内的には残置を認めないという典型的なダブルスタンダードである。
当時、第十七群参謀長としてガダルカナル島に派遣されていた宮崎周一少将も、同島で米軍と戦っていた佐野忠義第三十八師団長から、自分の部隊では、第一線撤退にあたり、今後「単独行動不能の者」は自決すること、「その際その時を以て戦死と認むる」ことを部下に伝えたところ、「銃口を自ら口に含みて最後を遂げたるもの少なからず」という話を聞いている(『大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌』)。
また、撤退のため、集結地であるエスペランスの患者輸送を命じられた歩兵第二二九連隊の下士官、種村清も、「できるだけ安全を期し、すみやかにエスペランスに到着すべし」、「歩行不能の者には自らで身を処するよう説得せよ」、「生死の意識なき者は始末するように」という「心得」が「引率者」に渡されていたと証言している(『生かされて生きる』)。