じじぃの「科学・芸術_93_ベルリン写真・公衆衛生の父」

ベルリン写真 (19名の日本人医学者)
左中段端が森鴎外、左下段2人目が山根政次

4。森鴎外と医学留学生たちの交流 山崎 光夫
明治十七年八月二十四日、仏船メンザレエ号で横浜を出港。同乗の医家に、片山国嘉、隈川宗雄、萩原三圭、長与称吉などがいた。十月七日フランス、マルセイユ港に入港、十一日にベルリンに到着し、ドイツ留学が始まった。
鴎外はこの十月から明治二十一年七月までの四年弱の留学生活を送る。ベルリン、ライプチッヒ、ドレスデンミュンヘン、ベルリンと移動して研究を続けた。
そして、明治二十一年(1888 年)六月三日にベルリン、フリードリッヒ写真館で医学留学生たちとともに記念写真を撮る。〔写真は文京区立本郷図書館鴎外記念室蔵〕
この日の鴎外の『隊務日記』(明治二十一年三月十日〜七月二日)の記述―。
 「三日。至両営。有新病兵二人。閲為務受害状一。此日呈五月第一大隊病兵表二。本表不藉病院助手之手而製之。従殻獵兒之命也。」
写真撮影にまつわる記述はない。
鴎外は一人、軍服姿である。このとき、プロシア軍の隊付医官の業務に就いていて、その任務にふさわしい服装だった。
フリードリッヒ写真館には、計十九名の日本人医学者が集合した。その後、この陣容でのシャッターチャンスはなかった。
写真は、陸軍省医務局長(軍医監)兼内務省衛生局員の石黒忠悳がベルリンを訪れていたのを機に、記念に撮られたものである。石黒は明治二十年(1887 年)九月に、ドイツのバーデン国都カルルスルーエで開催された第四回赤十字国際会議に政府委員として出席したため、七月にベルリンに到着していた。その石黒を中央に当時のドイツ医学留学生たちが一堂に会したのである。錚々たるメンバーが揃った。
以下の陣容である。(カッコ内は日本からの出発と帰国の年月日及び帰国後の主な役職)
河本重次郎、片山国嘉、山根正次、中浜東一郎、田口和実、浜田玄達、島田武次、加藤昭磨、北川乙治郎、瀬川昌耆、隅川宗雄、江口襄、谷口謙、坂田潜蔵、尾沢主一、竹島務、北里柴三郎、それに、森鴎外である。
いずれも帰国後、日本の近代医学の発展に寄与した医学者たちだった。国家を背負った、いわばエリート医学者集団の記念撮影といえる。だが、この一枚の写真からあぶり出されるのは、単なる記念写真の枠を越え、明治に生きた医学者たちの挫折や悲哀、苦闘である。成功と栄光ばかりではなかった。留学生という境遇に、「国家」と「個」の問題がふりかかる。知識人ゆえの苦しみともいえるだろう。ここには、もうひとつの明治近代史が垣間見られる。
http://jsmh.umin.jp/journal/55-1/108.pdf
『明治二十一年六月三日─鴎外「ベルリン写真」の謎を解く』 山崎光夫/著 講談社 2012年発行
公衆衛生の父 山根政次 (一部抜粋しています)
島田武次(同じドイツ留学)の追悼文を書いた山根政次(1856〜1925)は山口県・荻の生んだ医政家である。医師・山根孝中の次男(2男1女)として毛利藩。萩の城下東郊、香川津に安政4年(1856)に生まれた。裏山の名にちなみ殿山と称した。
父、孝中は医者で、特に眼科を得意とした。明治元年会津征討軍の軍医として従軍したときは、官軍ばかりでなく、会津藩の婦女子までも診療にあたり、「会津征討診療簿」という手記を残している。心のひろい正義漢だった。
山根政次は元治元年(1864)から荻藩士、門田翠のもとで漢字を習った。明治3年(1870)に藩の医学校に入って蘭学を修め、さらに、藩校・明倫館でドイツ人教師、ヒルレルについてドイツ語を学んだ。明治6年に上京して、司馬凌海(1839〜1879)の門に入ってドイツ語を修めた。司馬は、蘭、英、独、仏、中国語の5ヵ国語をあやつる語学の天才だった。通訳として医学界で果たした功績は計り知れないほど大きい人物である。そうした才人との出会いは山根にとって幸運とはいえ、その後の人生において、有形無形に影響した。
山根はやがて、第五大学区医学校(後の長崎医学校)に入学、しかし、その翌年明治7年には再度上京して、東京医学校に入るのである。
      ・
長崎のコレラ禍を体験した山根は、街の衛生管理の重要性を実感した。長崎は過去の歴史上、伝染病の根源地となっているのを踏まえ、流行を抑えるには、特に、水の管理が必要だった。井戸に屎尿が流れ込んでいる状況は見過ごせなかった。上水道の整備が急務と痛感して、長崎県の当局に上水道敷設を提言した。これがきっかけで、明治19年長崎で水道会社設立の議が起こったが、反対意見も続出して、なかなか前に進まなかった。しかし、上水道の必要性は理解され、明治21年に工事が始められた。長崎は坂の多い街で、水道敷設は困難を極めたが、明治24年4月より、通水が始まった。山根はいわば、長崎水道の父といえる。
      ・
山根は、明治20年(1887)10月8日にドイツ留学に出発した。陸軍から派遣された江口襄(ベルリン、フリードリッヒ写真館組)と一緒だった。江口は明治14年東京大学医学部を卒業しているので、山根の1年先輩になる。ベルリンに到着してから、尊敬していた同県人の乃木希典陸軍少将と初めて会い、以来親交を結ぶようになる。山根はドイツ、オーストリア、フランス、イタリア、イギリス、スウェーデンを歴訪して裁判医務を調査、研究した。その間、明治23年(1890)8月4日に開催された第10回万博医学会には、当時学んだウィーン大学から、ベルリンに駆けつけ、日本の医師の代表として意見を述べた。
      ・
明治36年8月、長谷川泰の主宰する済世学舎が、27年間の歴史を閉じ、廃校に至った。この年に出された「専門学校令」により、諸学校は文部省の許可が必要となった。そこで、長谷川は済世学舎を単科医科大学に昇格させようと企画したが、果たせなかったのである。当時、済世学舎に通っていた700余名の学生たちが行き場を失うという事態に至った。このとき、廃校を惜しむ有志たちが、長谷川と懇意にしていた山根に学校救済の道を熱心に請願した。山根は頼まれて嫌とは言わない懐の深さがあった。世話好きは山根の性格で、借金して人を救ったエピソードは数多くある。
山根は親密にしていた政府の要人や文部省の役人に働きかけて、翌明治37年4月、私立日本医学校(日本医科大学の前進)を創設し、校長に就任した。思いがけない事態で、教育者としての道を歩むことになった。
山根は明治35年山口県から衆議院議員に当選。選挙ではもっぱら乃木希典、安典2子の保証人となっている。山根は議員として、医事衛生事業に力を入れる医政家として活躍した。大正9年に政界を引退後は、駒込の特許消毒会社・社長に就任し、大正14年(1925)8月に死亡。享年69だった。