じじぃの「人の死にざま_1569_丹波・康頼(平安時代の医者)」

現存する日本最古の医学書 『医心方』
 (homepage3.nifty.com HPより)

筑摩書房 医心方 巻一B 薬名考 / 槇 佐知子 著
最終回の本書は他の32冊とは異なり、動植物・鉱物の薬名を新修本草の目録や本草和名などから康頼が取捨し編集したもの。
現代漢方にない名称が大半のため証類大観本草や中薬大辞典他を訳しつつ探索・考察し同薬異名、異薬同名、日中の同名異物を解明。各分野に資料を提供する。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480505439/
ファミリーヒストリー 「〜父・哲郎の素顔 1000年を超える歴史〜」 2015年9月4日 NHK
【出演】丹波義隆
俳優・丹波義隆さん。父は名優・丹波哲郎さん。
丹波家の歴史は1000年を超えると言われる。先祖には、歴史に名を残す人物が並ぶ。平安時代、日本最古の医学書を記した祖先。
そして明治時代、文豪・森鴎外と共に西欧に留学をしていた曽祖父 丹波敬三。日本の薬学のパイオニアでもある。そして、丹波家のはみ出し者と呼ばれた父、哲郎。学徒兵として出征、戦後は役者の道を選んだ。下積みの頃の姿、母との出会い、知られざる素顔が明らかになる。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1396/1804057/index.html
丹波康頼 ウィキペディアWikipedia)より
丹波 康頼(たんば の やすより、延喜12年(912年) - 長徳元年(995年))は平安時代の医家。官位は従五位上・医博士、丹波介、左衛門佐。
【経歴】
永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上した。これは、唐代の医書を参考に当時の医学全般の知識を網羅したもので現存する日本最古の医学書である。こうした功績をもって朝廷より丹波宿禰姓を賜り、以来医家として続く丹波氏の祖となる。
亀岡市下矢田町には、康頼が住み、薬草を育てたとの言い伝えがある「医王谷」などの地名が残されている。

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2015年9月4日 NHK ファミリーヒストリー 「〜父・哲郎の素顔 1000年を超える歴史〜」 より
丹波哲郎の長男 義隆さんの依頼で丹波家のルーツを探る。
滋賀県野洲市の西河原森ノ内遺跡から「丹波博士」と書かれた木簡が見つかっている。
中央大学の加藤謙吉講師、「博士はフヒトと読み、いわゆる書記官で最もインテリ階層に属するような人々だったはず」
東京都渋谷区の塙保己一史料館には丹波家の家系図が保管されており、祖先の康頼は天皇に仕えていた医者だということが分かる。そんな康頼の肖像画が神戸市の親戚の家で見つかった。
康頼が住んでいたとされる京都府・医王谷を訪ねると、康頼が薬草を育てて薬にして天皇の病気を治した、ということが分かりました。
日本最古の医学書 「医心方」。
これは今も日本に残る最古の医学書です。全30巻に渡って書かれた病気や怪我の治療法。中国やインドの文献が200以上も引用されています。
40年かけて、「医心方」を現代の言葉に訳した作家槇佐知子さんです。
槇さん、「引用されている文献が大半、もう現存していないんです。『医心方』だけに書名とかそれを書いた人の名前が残って理論が残っているといった形で、世界中にこの本だけに残っているということがとっても貴重な財産です」
「医心方」に書かれた文章から康頼の人柄も分かるといいます。
槇さん、「当時は一般の人が病気になれば生きているうちに川原に捨てられたり、都大路に捨てられたり、山の中に捨てられたりしていたんですけど、人を差別してはいけないと。身分・老若を一切考えず、すべて親が子を想う心でもって自分を磨けと」
義隆さん、(映像を観て)「びっくりしたのは差別をしないという言葉が出てきたのがすごい。びっくりしていまして、亡くなった父からも僕が俳優になったときに唯一教えてくれたのが、エキストラのみんなにも『おはようございます』と言え、差別をするなと教わったことだった」
医王谷近くにある京都府亀岡市金輪時に康頼を供養する石塔が残されています。
寺の住職、「これは丹波康頼公の供養塔です」
康頼は995年、83歳でこの世を去りました。
日本の医学界に大きな功績を残した人物として、今も語り継がれているのです。
康頼の後も丹波家の一族は代々宮中で医師・薬剤師の仕事に就きます。数百年に渡ってこうして医学のスペシャリストを輩出していたのです。
時代は康頼から900年後、義隆さんの曽祖父敬三の代に継ぎます。
敬三は1854年安政元年)に4人兄弟の次男として、今の神戸市の元町通りで生まれました。
父親は町医者でした。敬三は勉強が得意で9歳で既にオランダ語を学んでいたといいます。
敬三は明治6年東京帝国大学製薬学科に入学し、明治17年にドイツに留学します。留学中に撮ったとされる写真には森鴎外も一緒に写っており、鴎外が船の上で書いた日記には敬三も登場しています。
帰国後は東京帝国大学の教授に就任し、「裁判化学」を教えました。裁判化学とは裁判で白黒をつけるための毒物などを検出する当時としては新しい学問でした。