じじぃの「ジャンヌ・ダルクは3度死ぬ!本当はどうなんだろう」

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『死体が語る歴史』 フィリップ・シャルリエ/著、吉田春美/翻訳 河出書房 2008年発行
ジャンヌ・ダルクは3度死ぬ (一部抜粋しています)
2006年2月13日、シノンの博物館に保存されているジャンヌ・ダルクの遺体の一部とされるものの化学的調査が始まった。本物かどうか(人間の遺体の一部か否か)をめぐる大きな疑問とともに、遺物の来歴に不可解な点があり、その年代も常識では考えられないため、学際的な再調査が必要になったのである。それら「聖遺物」の歴史をいま少し整理するとともに、そのためにどのような調査を行うべきか考えてみよう。
1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクルーアンのヴィユ・マルシェ広場で生きながら火あぶりにされた。ジャンヌ・ダルクの死は、おそらく、15世紀を通じて最も資料の裏づけのある事件であり、さまざまな歴史的証言も、告訴状や復権裁判の記録も、事実に即してかなり正確に書かれている。歴史家のキシュラが指摘するところでは、ジャンヌを裁いた判事たち(とウィンチェスター枢軸卿)は、ジャンヌの遺体が再び妖術に利用されないように、遺灰をセーヌ川に捨て去るよう命じた。それにはおそらく別の目的があったと思われる。遺体をいっさい回収させないこと、火刑の後をまったくとどめないようにして、反イギリスのまさに急先鋒であったオルレアンの乙女の痕跡を完全に消すことである。死刑の判決理由を説明した告発箇条については、あとでもう一度検討するつもりである。
コシャールはこの種の処刑がどのように行われたのか、以下のように説明している。
「火あぶりがごく一般的な刑罰であった中世において、火刑はおおむね以下のように行われた。藁の層をはさんで、地面に直接、薪と柴の束が四角形に積み上げられる。上の部分の中央に、開口部が設けられ、そこから袋に入れられた死刑囚が投げ込まれる。死刑囚は四方八方から燃えさかる薪の山の中を、上から下へと落下していく。このような燃えさかる籠に入れられたら、火に呑み込まれて、あっという間に炭になってしまう。必要とあれば、死刑執行人が槍で突き、死の苦しみを早く終わらせることもあるが、それでは、処刑は短い時間で終わってしまう(・・・)。しかしジャンヌに対して、イギリス人たちは通常の方式を採用しなかった。このようなやり方では、犠牲者があっという間に見物人から見えなくなってしまうからである。そうではなく、彼らは、火あぶりの様子をはっきりみせようとした。ジャンヌが炎の中で死んでいくのを見れば、彼女が炎から逃げることができたとか、別の女が身代わりになったばどと、民衆が言い出すことがないからである。というわけで、処刑の最初から最後まで、ジャンヌの姿が見える世に、高い台の上に薪の山を築いた。こうすればジャンヌの処刑を長引かせ、より残酷なものにできるからだった」
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そもそも、身元の同定につながるような、ジャンヌの体の特徴や健康状態について、どの程度正確に分かっているのだろうか。実をいえば、たいしたことは分かっていないのである。
ジャンヌはジャンヌ・ダルクとイザベル・ロメの娘として、ヴォージュ地方のドンレミ村で生まれた。本書ではこの説についてあらためて検討するつもりはないが、近年、歴史研究者のあいだで、王妃イザボー・ド・バヴィエールと、国王シャルル六世の弟オルレアン公ルイのあいだに生まれた非嫡出の娘であるとの説が唱えられている(言い換えれば、親しい戦友のひとりであったデュノワと同じく、「オルレアンの私生児」ということになる)。
最も有名な肖像画(唯一同時代に描かれたものか?)は本人をモデルにして描かれたものではなく、クレマン・ド・フォカンベルグというパリ高等法院の書記の想像力から生まれたものである。1429年5月10日、イギリス軍によるオルレアン陥落の際、書記の記録簿の余白に「乙女」の戯画的な肖像画スケッチされた。このスケッチは現在、パリの国立古文書館に保存されている。
ジャンヌの体の特徴について最も詳しく書かれたものに、以下の証言がある。一読しておわかりになるように、女性さしさとりりしさを兼ね備えた、尊敬に値するじんぶつとして描かれている。
「あの乙女はたいそうエレガントでしたが、態度は男らしく、口数は少なく、慎重に言葉を選んで話しました。声は優雅で女らしく、食は細く、ぶどう酒もわずかしか飲みませんでした。乗馬と立派な武器を身につけるのを好み、貴族の戦友たちを愛し、集まりや会議に出るのは好まず、ひどく涙もろいのですが、陽気な顔をしていました。傷や鎧の重さに驚くほど絶え、1週間、昼も夜も完全武装で過ごすことができました」  (ペルスァル・ド・ブーランヴィリエの証言)
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シノンの瓶には、17世紀の手書きの文字で「オルレアンの乙女」と書かれていた。
これは時代錯誤ではないのか、それとも当時すでにこの表現が使われていたのだろうか。実際には、「オルレアンの乙女」という言葉はかなり以前から使われていた。最も古い用例は1552年にさかのぼり、『女性の名誉を守るために書記フランソワ・ド・ビヨンが築いた難攻不落の砦』に、オルレアンの勇敢な乙女ことジャンヌ」とある。
さらに、この瓶はジャンヌ・ダルクの唯一の「聖遺物」ではなかった。20世紀初めまで、リオン市の古文書館に「聖女の一部」なるものが存在していた。サン=ピェール=エウ=ムーティエとラ・シャリテ=シュル=ロワールの攻囲戦(1429年11月9日)で、ジャンヌはいつものように周辺の町に、フランス軍が攻撃を仕掛けることを伝え、援助を求める手紙を書いた。リオンも手紙を送られた町のひとつだった。19世紀にキシュラがフランス中をめぐり、ジャンヌ・ダルクに関する証言が残されている古い文書を探したとき、この手紙についても記していた。彼がこの手紙を特別なものと考えていたのには、いくつかの理由があった。「1本の指の跡と濃い色の髪の毛を見ることができた。それらはもともと封蝋についていたらしい」。実際、手紙につけられていた赤い封蝋の中に、ジャンヌは1本の毛髪をはさみ、自分のしるしとして人差し指の指紋を残していた。これは当時よく行われたことである。ジャンヌはどうやらブルーネットだったようだ・・・・。
ここでもう一度、ジャンヌの告発理由について考えてみよう。火刑台の下に建てられた札には以下の罪状が書かれていた。
「乙女と呼ばれしジャンヌ、虚言、人に害をなす、民衆を惑わす、未来の予見、迷信、神の冒涜、傲慢、イエス・キリストに対する信仰の誤り、自惚れ、偶像崇拝、残虐、放埒、悪魔崇拝、背教者、分離主義、異端・・・・」

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どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、『死体が語る歴史』という本を見ていたら、「ジャンヌ・ダルク」のことが書かれていた。
ジャンヌ・ダルクは、中世ヨーロッパで「オルレアンの乙女」と呼ばれたフランスの英雄である。イギリスとの戦いで捕虜となり、宗教裁判で異端者と断罪され、ルーアンの広場で火刑になった。
火刑になった時、火刑台の下に建てられた札には、
「乙女と呼ばれしジャンヌ、虚言、人に害をなす、民衆を惑わす、未来の予見、迷信、神の冒涜、傲慢、イエス・キリストに対する信仰の誤り、自惚れ、偶像崇拝、残虐、放埒、悪魔崇拝、背教者、分離主義、異端・・・・」
と書かれてあったという。
彼女はどんな女性だっただろう。
中世では自分が理解できないものや、自分に災いをもらたすかもしれない者を魔女として殺した。
この戦争により、結果的にイギリスはフランスにおける領土を失った。そして負けたイギリスではその後もジャンヌ・ダルクは魔女なのである。
彼女の遺体は火刑によって灰となり、セーヌ川に流された。
後世の研究で、彼女は少し、癲癇(てんかん)気質ではなかったかと言われている。しかし、彼女は普通の少女だったのである。
ジャンヌ・ダルク1920年5月16日にベネディクトゥス15世によって聖人となった。
2010年12月10日、中国の民主活動家、劉暁波氏=服役中=のノーベル平和賞授賞式がノルウェーの首都オスロで行われる。
劉暁波氏は現代版、魔女なのである。